マカオ遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 06:51 UTC 版)
バタヴィアのオランダ東インド会社本部で、クーンはマカオ遠征に8隻からなる艦隊を組織した。さらに途中オランダ船と遭遇した場合、遠征艦隊に参加させる命令を出した。上陸軍の兵士は厳選され、アジア人兵士の比率は通常より下げられた(当時の植民地軍は先導に現地人を雇用するのが通例であった)。クーンは遠征隊に満足し、本国の東インド会社ハーグ委員会(オランダ語版)の役員会に宛てた手紙で「このような堂々たる遠征」に自ら参加できなかったことを悔いた、と書いた。本国の役員会は彼の興奮には乗せられなかった。彼らはすでに多くの戦線を抱えているので、判断を下すに足る情報を送るまでクーンには待機を命じた。しかし、コルネリス・レイエルセン率いる艦隊はこの命令が発される前の1622年4月10日にすでに出発してしまっていた。 遠征の最終的な目標は中国沿岸にオランダの拠点を確保し、中国に貿易を強制させることだったので、レイエルセンにはマカオを攻撃しないという選択肢もあり、その場合は代わりに澎湖に拠点を築く計画だった。6月8日、艦隊は薪と水の補給にカムラン湾に入り、そこでインドシナ半島のはずれで遭遇したオランダ船4隻を艦隊に組み入れ、また船1隻をマニラの海上封鎖の(イングランド=オランダ連合艦隊の)任務についているウィレム・ヤンスゾーン(英語版)に援軍として派遣した。このため、2日後に艦隊がカムラン湾を出たときには艦隊は11隻になった。数日後、シャム籍の戦闘用ジャンク船が通りかかった。このジャンク船にはシャム人28人と日本人20人が乗っていたが、日本人たちはオランダ人の遠征に参加したいと申し出て許された。これで上陸軍は約600人になり、中には日本人、マレー人、バンダ諸島人もいた。 遠征の前、クーンはヤンスゾーンにマニラ封鎖の船を数隻遠征隊に派遣するよう命令した。そのため、5月29日以降、オランダ船2隻とイングランド船2隻はマカオの外で待っていた。合流待ちの間、この4隻の船はマカオの海上交通を妨害しようとしたが、ポルトガル船の拿捕には失敗した。ポルトガルの日本への航海船隊の司令官のロポ・サルメント・デ・カルヴァーリョが大急ぎでジャンク船7隻を銃で武装させ、護衛につかせたからであった。遠征艦隊は6月21日にマカオ近海に到着、先に到着した船と合流した。イングランド船は海戦への参加を許されたが上陸や戦利品の獲得は許可されなかったので、イングランド船の艦長は戦闘への参加を拒否した。このため、レイエルセンの指揮下には船13隻、1,300人(うち上陸軍800人)があった。
※この「マカオ遠征」の解説は、「マカオの戦い」の解説の一部です。
「マカオ遠征」を含む「マカオの戦い」の記事については、「マカオの戦い」の概要を参照ください。
- マカオ遠征のページへのリンク