ペルージャ - ローマ時代・1998年W杯(1998年-2001年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 05:00 UTC 版)
「中田英寿」の記事における「ペルージャ - ローマ時代・1998年W杯(1998年-2001年)」の解説
日本代表の初出場となった1998年フランスW杯では、チームの核としてグループリーグ全3試合にフル出場。中田のプレーは海外のクラブに認められ、W杯後獲得に名乗りをあげたクラブは12にのぼった。アーセナル、ユヴェントスFCというビッグクラブは、レンタルに出される危険性があったために選択せず 、同年7月、21歳でイタリアのセリエA・ペルージャへ移籍金470万ドルで完全移籍した。 1998-1999シーズン開幕戦で、ジネディーヌ・ジダンを擁する強豪ユヴェントスFCから2ゴールを奪うセンセーショナルなデビューを飾ると、年間10得点(うちPK4得点)をあげるというミッドフィールダーとしての当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立て、イタリアの有力スポーツ誌グエリン・スポリティーボが選出するセリエA初年度の外国人選手を対象にしたセリエAサプライズ賞に選ばれた。 1999-2000シーズン開幕前には中田に興味を示す欧州のクラブが続出したが、ペルージャが移籍金を釣り上げたため契約には至らなかった。この時点で最も獲得に熱心だったクラブはリーグ・アンのASモナコといわれる。シーズン途中に1600万ドルで名門ASローマへ移籍。これは監督だったファビオ・カペッロの強い希望により実現したものとされる。当初はボランチで起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などに従来のポジションであるトップ下で出場した。しかし、トッティが復帰すると再びボランチで起用され、外国人枠の問題もあり、徐々に途中出場が多くなっていった。 2000-2001シーズン、外国人枠の関係で、開幕から首位を独走するローマではベンチを温める日々が続いた。スタメン出場も僅か5試合に留まった。ユベントスと優勝を争う中での直接対決となった第29節のユヴェントス戦、0-2とリードを許す中、トッティとの交代で途中出場、ミドルシュートでゴールを決めると、再び鋭いミドルシュートを放ち、ファンデルサールが弾いた所をヴィンチェンツォ・モンテッラが詰めてゴールを奪い、2-2の引き分けに持ち込んだ。この引き分けが大きく物を言い、日本人選手として初めてセリエA優勝メンバーとなった。 2000年シドニーオリンピックではU-23代表の一員として決勝トーナメント進出に貢献したが、アメリカ戦でPK戦の4本目を失敗し、チームはベスト8で大会を去ることになった。この頃から「海外組」の先駆者として、日本での代表活動と欧州リーグ戦のスケジュール調整が厳しくなる。2001年のコンフェデレーションズカップでは、セリエAの首位を走っていたASローマと日本代表監督フィリップ・トルシエとの間で、中田の招集を巡って軋轢が起こった。「グループリーグ3試合のみ」という条件で日本に帰国して戦ったが、日本代表がグループリーグを突破すると、トルシエは中田に準決勝以降も出場するよう要請した。日本サッカー協会とASローマとの話し合いの結果、準決勝まで参加を延長し、その後イタリアに戻ることになった。中田自身も「日本人初のセリエA優勝」の瞬間に立ち会うことを望んでいた 。準決勝では豪雨の中、強いグラウンダー(ゴロ)のフリーキックで直接ゴールをあげ、このゴールが決勝点となって日本をフル代表初の国際大会決勝に導き、チームを離れた。
※この「ペルージャ - ローマ時代・1998年W杯(1998年-2001年)」の解説は、「中田英寿」の解説の一部です。
「ペルージャ - ローマ時代・1998年W杯(1998年-2001年)」を含む「中田英寿」の記事については、「中田英寿」の概要を参照ください。
- ペルージャ - ローマ時代・1998年W杯のページへのリンク