ヘラートの復興と繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 05:41 UTC 版)
ヘラートはモンゴルの破壊によって一度は荒廃したが、まもなく土着のイラン系豪族クルト家のもとで復興を遂げた。 シャムスッディーン・クルトはモンゴル帝国の侵攻時にいち早くモンゴルに帰順して難を逃れており、モンゴルの支配のもとでかつての住民を集め、ヘラートの再建にとりかかった。1255年、クルト家はホラーサーンの支配権を握った王族フレグによってヘラートの世襲統治権を認められ、フレグの子孫がイランに立てたイルハン朝の宗主権下に服す地方政権クルト朝を立てた。ヘラートは、現在のアフガニスタン一帯を支配するクルト朝の首都となり、めざましい復興を遂げた。 1380年には中央アジアの新たな支配者ティムールがヘラートを征服し、首都を失ったクルト朝はまもなく滅び、ティムールの四男シャー・ルフが新たな支配者となる。1409年、ヘラートを中心にホラーサーンの支配を固めたシャー・ルフは首都サマルカンドを制圧してティムール死後の後継者争いの最終的な勝者となるが、彼はそのままヘラートに留まりつづけたのでヘラートがティムール朝の首都となり、その支配のもとでヘラートは歴史上でもっとも繁栄した時代を迎える。15世紀を通じてヘラートにはティムール朝の中心が置かれ、シャー・ルフやフサイン・バイカラなどの文化・文芸を愛好した君主のもとで多くの建造物が築かれ、ペルシア語やチャガタイ・トルコ語で優れた詩文が書かれるなど、東方イスラム世界の文化的な発展の頂点に立った。この時代にトルコ人によって育まれたイスラーム文化を、トルコ・イスラーム文化という。15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「哈烈」と記録されている)を訪れている。 しかし、フサイン死後の1507年にヘラートはウズベクのシャイバーン朝によって征服されたのを皮切りに、1510年にはサファヴィー朝のイスマーイール1世が占領するなど、ウズベクとサファヴィー朝による争奪の的となった。この長年にわたった紛争の結果、ヘラートの繁栄は衰え、国境地帯の辺境都市に過ぎなくなっていった。
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