ヘラクレイオス朝
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「東ローマ帝国の皇帝一覧」の記事における「ヘラクレイオス朝」の解説
詳細は「ヘラクレイオス王朝」を参照 肖像名称生年在位期間即位背景没年 ヘラクレイオス FLAVIVS HERACLIVS AVGVSTVS Ηράκλειος 575年頃 610年10月5日 – 641年2月11日 アルメニア人貴族大ヘラクレイオスの息子。カルタゴ総督であった父が皇帝フォカスに対して反乱を起こした。ヘラクレイオス(息子)が610年10月、首都コンスタンティノポリスへ艦隊を率いて攻め寄せると、首都はわずか2日で開城。フォカスは処刑され、代わってヘラクレイオスが皇帝に即位した。 641年2月11日 コンスタンティノス3世 Κωνσταντίνος Γ' Ηράκλειος 612年5月3日 641年2月11日 – 641年5月24日 ヘラクレイオスの長男で、先妻エウドキアとの子。父の死により即位。遺言により異母弟ヘラクロナスと共同統治が行われた。 641年5月24日 ヘラクロナス Ηρακλεωνάς 626年 641年2月11日 – 641年9月 ヘラクレイオスの4人目の子供で、後妻(姪)マルティナとの子。父の死後、遺言により異母兄コンスタンティノス3世と共同皇帝として即位。即位4ヶ月ほどでコンスタンティノスが急死しヘラクロナスが単独皇帝となる。 641年? コンスタンス2世“ポゴナトス” (髭が生えている) Κώνστας Β' Ηράκλειος 630年11月7日 641年9月 – 668年9月15日 コンスタンティノス3世の子。父の死後にヘラクロナスを擁したマルティナが権力を掌握しようとしたが、中央軍長官であったウァレンティノスを中心とするコンスタンティノス3世派と、首都市民(サーカス党派)の力によって、11歳で共同皇帝となる。さらに元老院などの画策によってヘラクロナスらは廃位・追放され、コンスタンスが単独の皇帝となった。 668年9月15日 コンスタンティノス4世 Κωνσταντίνος Δ' ο Πωγώνατος 650年頃 668年9月15日 – 685年 コンスタンス2世の長男。654年4月に父によって共同皇帝に任じられる。668年に父が暗殺されると皇帝に即位。 685年7月10日? ユスティニアノス2世“リノトメトス” (鼻削がれ男) Ιουστινιανός Β' ο Ρινότμητος 668年? 685年 – 695年 コンスタンティノス4世の長男。父の死により即位する。 711年11月7日 レオンティオス Λεόντιος ? 695年 - 698年 イサウリア地方の出身。コンスタンティノス4世時代からテマ・アナトリコンの長官として活躍。ユスティニアノス2世によってアルメニア戦線に投入されるなどしている。しかし皇帝の不興を買って692年頃に投獄された。695年に赦免されて、テマ・ヘラスの長官に任じられるもサーカス党派の力を借りてクーデターを起こし、皇帝を捕らえて鼻を削いだ上でクリミア半島のケルソンに追放し、自ら皇帝として即位した。 706年2月15日? ティベリオス3世 Τιβέριος Γ' ο Αψίμαρος ? 698年 – 705年8月 キビュライオタイの指揮官。698年のカルタゴの戦いでカルタゴを奪われクレタ島まで撤退してきた艦隊に擁されて反乱を起こす。サーカス党派が呼応したこともあってコンスタンティノポリスを攻略しレオンティオスを廃して皇帝に即位。 706年2月15日? ユスティニアノス2世“リノトメトス” (復位) Ιουστινιανός Β' ο Ρινότμητος 668年? 705年8月 – 711年 削がれた鼻の代わりに黄金製の付け鼻をつけ、帝位への復帰を公然と表明。ハザール汗国に逃れ、可汗の姉妹と結婚。さらに第一次ブルガリア帝国のテルヴェル王が復位を支持し、その力を背景にしてティベリオス3世を打倒して、復位。 711年11月7日 フィリピコス・バルダネス Φιλιππικός Βαρδάνης ? 711年 - 713年6月2日 ペルガモン出身のアルメニア系の人物。父のニケフォロスはパトリキオスという高い爵位をもっており、彼自身もパトリキオスだったとされている。ティベリオス3世によって一時ケファレニア島に追放されていたが、ユスティニアノス2世によって召喚された。しかし711年、ケルソンに再び追放されることとなり、この年ユスティニアノス2世が復讐のためにケルソンに派遣した艦隊に同乗した。しかしこの艦隊がケルソン市民に呼応してユスティニアノス2世に反旗を翻すと、新たな皇帝として即位させたのである。 714年1月20日? アナスタシオス2世 Αναστάσιος Β' ? 713年6月3日 - 715年 フィリピコス・バルダネスの代には書記局長官を務めていた。だがフィリピコスに対する不満が高まってきたのを見て、他の高官たちとともに陰謀を企画した。そしてフィリピコスの幽閉に成功すると、その翌日に聖ソフィア大聖堂で即位。 719年7月1日 テオドシオス3世 Θεοδόσιος Γ' ο Αδραμμυττηνός ? 715年 – 717年3月25日 アドラミュティオンの徴税役人。アナスタシオス2世に対してテマ・オプシキオンが反乱を起こすと、反乱軍に担ぎ上げられて対立皇帝とされた。反乱軍はコンスタンティノポリスに攻め寄せてその攻略に成功したため、小アジア半島に避難していたアナスタシオス2世も降伏して退位した。その結果、皇帝となった。彼が皇帝となった理由として、実はティベリオス3世の息子であったからであるとする有力な見解が提出されている。 ?
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