プリモ・デ・リベラの独裁体制とは? わかりやすく解説

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プリモ・デ・リベラの独裁体制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 14:22 UTC 版)

スペイン・ブルボン朝」の記事における「プリモ・デ・リベラの独裁体制」の解説

1902年アルフォンソ13世親政開始するが、国内ではアナキズム蔓延していた。それを象徴するのが1906年結婚式である。アルフォンソ13世イギリス女王ヴィクトリア孫娘であるバッテンバーグ家ヴィクトリア・ユージェニーとの結婚式行ったが、その際アナキストであるマテオ・モラレスの放った爆弾により、ユージェニーウェディングドレス近くにいた近衛兵の血で染まった1914年第一次世界大戦勃発した際、アルフォンソ13世中立保ちスペイン戦争惨禍免れた。しかし、終戦直前起きたスペイン風邪によって、15万人上の命が失われた大戦中にロシア革命起こりスペインにも共産主義浸透するまた、植民地モロッコでも独立運動激化しスペイン国内は非常に不安定になった。 このような危機的状況の中で登場したのが、第2代エステーリャ侯爵ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍である。エステーリャ侯は1923年カタルーニャ戒厳令布告し臨時政府の樹立宣言した議会当然のことながら非難したが、アルフォンソ13世はむしろこれを支援した国王支持得たプリモ・デ・リベラ憲法停止し議会廃止させて実権掌握した軍事政権始まりである。その基盤として結成されたのがプリモ・デ・リベラ首班とする愛国同盟である。そして1925年プリモ・デ・リベラ首相とする内閣発足したプリモ・デ・リベラ共産党徹底的に弾圧する一方で社会労働党からの支持を得ることに成功し、彼らの主張にも沿った政策行っている。懸案モロッコ問題1926年解決している。また、国内産業保護育成経済的ナショナリズム)、積極的な公共投資によって経済発達させた。1929年バルセロナ万国博覧会は、その象徴ともいえる。アルフォンソ13世プリモ・デ・リベラを「我がムッソリーニ」と呼んで信頼した。しかし、世界恐慌の影響スペインにも及ぶと、地主資本家、また軍内部からも反発出てプリモ・デ・リベラ1930年辞任した

※この「プリモ・デ・リベラの独裁体制」の解説は、「スペイン・ブルボン朝」の解説の一部です。
「プリモ・デ・リベラの独裁体制」を含む「スペイン・ブルボン朝」の記事については、「スペイン・ブルボン朝」の概要を参照ください。

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