プリモ・デ・リベラの独裁体制
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「スペイン・ブルボン朝」の記事における「プリモ・デ・リベラの独裁体制」の解説
1902年にアルフォンソ13世は親政を開始するが、国内ではアナキズムが蔓延していた。それを象徴するのが1906年の結婚式である。アルフォンソ13世はイギリス女王ヴィクトリアの孫娘であるバッテンバーグ家のヴィクトリア・ユージェニーとの結婚式を行ったが、その際にアナキストであるマテオ・モラレスの放った爆弾により、ユージェニーのウェディングドレスは近くにいた近衛兵の血で染まった。 1914年に第一次世界大戦が勃発した際、アルフォンソ13世は中立を保ち、スペインは戦争の惨禍を免れた。しかし、終戦直前に起きたスペイン風邪によって、15万人以上の命が失われた。大戦中にロシア革命が起こり、スペインにも共産主義が浸透する。また、植民地モロッコでも独立運動が激化し、スペイン国内は非常に不安定になった。 このような危機的状況の中で登場したのが、第2代エステーリャ侯爵ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍である。エステーリャ侯は1923年にカタルーニャで戒厳令を布告し、臨時政府の樹立を宣言した。議会は当然のことながら非難したが、アルフォンソ13世はむしろこれを支援した。国王の支持を得たプリモ・デ・リベラは憲法を停止し、議会を廃止させて実権を掌握した。軍事政権の始まりである。その基盤として結成されたのがプリモ・デ・リベラを首班とする愛国同盟である。そして1925年にプリモ・デ・リベラを首相とする内閣が発足した。プリモ・デ・リベラは共産党を徹底的に弾圧する一方で、社会労働党からの支持を得ることに成功し、彼らの主張にも沿った政策を行っている。懸案のモロッコ問題も1926年に解決している。また、国内産業の保護育成(経済的ナショナリズム)、積極的な公共投資によって経済を発達させた。1929年のバルセロナ万国博覧会は、その象徴ともいえる。アルフォンソ13世はプリモ・デ・リベラを「我がムッソリーニ」と呼んで信頼した。しかし、世界恐慌の影響がスペインにも及ぶと、地主や資本家、また軍内部からも反発が出て、プリモ・デ・リベラは1930年に辞任した。
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