ブラッシュラン教会の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/02 15:11 UTC 版)
「トマス・キャンベル」の記事における「ブラッシュラン教会の設立」の解説
1811年、トマスらのワシントン・クリスチャン協会のメンバーは、ブラッシュランと呼ばれた小川の近くにブラッシュラン教会を設立した。ブラッシュラン教会においては、牧師と平信徒の区別は存在せず、長老、執事、伝道者などの役職を信徒のうちから選んだ。なお、この教会運営のあり方は、後のディサイプルス教会発足時にも引き継がれた。 しかしながら、ブラッシュラン教会は信徒間の意見の相違を、メンバーのお互いの寛容さで乗り越えてきたが、やがて幼児洗礼の是非に関する議論が発生することとなった。教会設立当初は、希望者にのみ、トマスやアレグザンダーが浸礼による洗礼を行っていたが、アレグザンダーに子供が誕生したことをきっかけに、幼児洗礼が聖書的に正しいのかどうか判断をすることとなった。そしてトマスやアレグザンダーらの判断の結果、1812年、信仰を告白した者への浸礼のみが洗礼として有効であるという意思統一を教会内で行った。この洗礼問題における意思統一は、ブラッシュラン教会周辺のバプテスト教会に歓迎され、1815年にはバプテスト教会連合体(通称「レッドストーン」)との協力関係を結んだ。 しかし実際のところ、ブラッシュラン教会の信徒たちにとっては、バプテスト教会が制定している信仰告白を受け入れることもできなかったし、ブラッシュラン教会自らの独立的立場を脅かされることを大いに危惧していた。諸教会・信徒の一致を掲げること、そしてあらゆる人間的な教義は受け入れないこと、を条件にバプテスト教会連合「レッドストーン」へ協力することを決めたものの、1816年にアレグザンダーがバプテスト教会連合の会議で演説した内容(「律法の終焉」、「旧約ではなく新約を重視すべきこと」など)がバプテストの各教会から猛烈な批判を受けたことをきっかけに、トマスらは1824年には協力関係を解消することを決断する。
※この「ブラッシュラン教会の設立」の解説は、「トマス・キャンベル」の解説の一部です。
「ブラッシュラン教会の設立」を含む「トマス・キャンベル」の記事については、「トマス・キャンベル」の概要を参照ください。
- ブラッシュラン教会の設立のページへのリンク