ニューヨーク定住以後
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1962年末にメキシコを後にした河原は、アメリカに8か月ほど滞在した後、パリにしばらく滞在し、1965年からはニューヨークを拠点に活動するようになる。この時期には、文字や記号による作品に取り組んでいる。この時期の作品としては、1964年にパリとニューヨークで制作したドローイング(196枚が現存)、1965年作の"Title"、同年作の"Location"などがある。"Title"と"Location"は、いずれもキャンバス上に白抜きの文字を活字体で「描いた」作品で、翌1966年から開始する「日付絵画」との関連で注目される作品である。"Title"は、1965年東京国立近代美術館で開催された「在外日本作家展」に河原が出品したもので、マゼンタ色に塗られた3枚のキャンバスからなり、中央のキャンバスには"1964"、左と右のキャンバスにはそれぞれ"ONE THING"、"VIET - NAM"の文字が白の絵具で「描かれ」ている。"Location"は、黒地のキャンバスに白の文字で"LAT. 31°25' N LONG84°1'E"(北緯31度25分、東経84度1分)とある。これはサハラ砂漠上のある1地点の緯度経度を表したものだが、この1点が制作されたのみでシリーズ化しなかった。 1965年に東京国立近代美術館で開催された「在外日本作家展」に、河原は文章による「作品」を発表している。『あるカタログのための意味の配列』と題されたこの「作品」は、テレビの時代における美術とは何かという河原の美術論を、縦33字×横33字の正方形の文字列として表したものである。同展のカタログには、この文章は活字による印刷ではなく、他の美術作品と同様に写真図版として掲載されていた。河原が美術に関する自分の考えを日本語の文章として発表したのはこれが最後となった。 1966年以降の河原の活動は、「日付絵画」を中心とした、時間、空間をテーマとした作品に収斂していく。 美術評論家の本間正義は、1965年6月のある日、河原のニューヨークのアトリエを訪問した。本間はその時の模様を『美術手帖』誌に寄稿している(本間正義「その後の河原温」『美術手帖』260号)。この記事には当時の河原の肖像写真も載っているが、この時が河原がインタビューおよび写真撮影に応じた最後の機会と思われる。1966年(「日付絵画」制作を開始した年)以降の河原は、作者自身の存在や生を制作の主要テーマとしながら、作者自身が表に出てくることは全くなくなった。河原は自分の展覧会のオープニング等にも出席することはなく、1966年以降のインタビュー、肖像写真等は存在しない。展覧会のカタログに載せる「作者経歴」は、河原が誕生から展覧会開催当日までに生きた日数を記すのみで、その他の経歴は一切省かれている。たとえば、1998年に東京で開催された回顧展「河原温 全体と部分1964 - 1995」のカタログには"23,772days(Jan. 24, 1998)"とあり、展覧会初日の1998年1月24日までに河原が生きた日数が23,772日だという事実のみが記されている。この「作者本人が姿を見せない」という姿勢は徹底しており、表現活動の一環とも思われる。 多くの「コンセプチュアル・アート」の作家たちが1970年代以降に作風や視座を転換する中、河原はコンセプチュアル・アートに共鳴した日から死まで作風を変えなかった。
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