ドゥル・シャルキン建設
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「サルゴン2世」の記事における「ドゥル・シャルキン建設」の解説
詳細は「ドゥル・シャルキン」を参照 前713年の段階で、サルゴン2世は遠征の成功によって財政を強化しており、新たな首都とすることを意図してドゥル・シャルキン(アッカド語:Dur-Šarru-kīn、「サルゴンの要塞」の意)の建設に取り掛かった。他のアッシリア王たちによる遷都の試み(例えばアッシュル・ナツィルパル2世のカルフの改修や、サルゴン2世死後のセンナケリブによるニネヴェへの遷都など)とは異なり、ドゥル・シャルキンは既存の都市を拡張するのではなく、全くの新都市を建設する試みであった。サルゴンが決めたドゥル・シャルキンの建設位置はカルフにきわめて近く、アッシリア帝国の中心地としてふさわしい(とサルゴンが考えた)場所であった。 この計画は壮大な事業であり、サルゴン2世はこの新都市の建設を、自身の最大の業績とすることを意図していた。ドゥル・シャルキンが建設された土地は、それまではすぐそばにあるマガヌッバ(Maganubba)村の村民が所有していた土地であった。ドゥル・シャルキンに設立され発見された碑文では、サルゴン2世は意気揚々とこの土地が最適であると認めると主張しており、マガヌッバの村民に適切な市場価格を支払って土地を取得したことを強調している。ほぼ3平方キロメートルの計画区域を持つこの都市はアッシリア最大の都市になる予定であり、サルゴン2世は都市の人口を維持するために必要になるであろう膨大な農業用水を確保するため、灌漑プロジェクトを開始した。サルゴン2世はこの建設計画に深く関与しており、カルフの宮廷においてエジプト(クシュ)の使節を饗応している際も、常にそれを監督していた。カルフの総督に宛てた一通の書簡において、サルゴン2世は次のように書いている。 カルフ総督に対する王の言葉。700俵の藁と700束の葦(それぞれロバが運ぶことができるより多くの束)はキスレヴ(Kislev)の月の初めまでにドゥル・シャルキンに到着しなければならない。一日でも遅れたならば其方は死ぬであろう。 ドゥル・シャルキンの計画図はカルフからインスピレーションを得ていたが、この二つの都市計画は同一ではなかった。カルフはアッシュル・ナツィルパル2世によって大規模な再開発が行われたが、それでもなお幾らかは自然に成長した居住地であった。全く対照的に、ドゥル・シャルキンにおいては、建設地周辺の景観は考慮されていない。二つの巨大な基壇(1つは王宮の武器庫の建物、もう一つは宮殿と神殿の建物)、要塞化された市壁、7つの記念碑的な門、これら都市にある全てのものが完全にゼロから建設されている。これらの市門は既存の帝国内の道路網を考慮することなく一定の間隔で置かれていた。ドゥル・シャルキンのサルゴン2世宮殿は、それまでのアッシリア王が建てた宮殿の中で最大かつ最も装飾豊かな宮殿であった。浮彫が宮殿の壁面を飾り、サルゴン2世の征服の場面、特にウラルトゥ遠征とムサシルの略奪が詳細に描かれていた。 サルゴン2世の後期の遠征は成功裡に終わった。サルゴン2世は前711年に現在のイスラエルにあったアシュドドの征服に成功し、またシロ・ヒッタイトの王国グルグム(英語版)(前711年)とクンムッフ(英語版)(前708年)をアッシリア帝国に組み込んだ。サルゴン2世の前713年の中央アナトリア遠征はタバルの小王国の征服を目指して行われ、ここにアッシリアの属州を置くことに成功した。だがこの属州は流血の反乱の後、前711年に失われた。これはそれまでのアッシリアの歴史においてかつて無かったことである。
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