テマとタグマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:15 UTC 版)
7世紀にアラブ人に敗れて帝国の版図が著しく縮小したとき、帝国の軍制もまた根本的な変化を余儀なくされた。小アジアに退却した野戦部隊は、残存領土に分かれて駐屯し、テマ(軍団)となった。テマは敵と決戦して打ち破ろうとはせず、拠点防衛とゲリラ戦を組み合わせて受け身の抗戦に徹した。かつての辺境部隊の役割を担ったわけだが、この時代のテマには敵を国境線で防ぎ止めることができず、中央から主力軍が来て敵を撃破してくれるという希望もない。敵の侵入を許しながら征服されずに戦いぬく戦略であった。テマの兵士は平時は農民で、諸税を免除される代わりに武器を自弁した。 8世紀後半に帝国が存亡の危機を脱すると、テマの細分化とともに、テマに地方行政を担わせる改革が進み、地方制度としてのテマ制が作られた。テマ制では、テマ(軍団)の長官(ストラテーゴイ)が地方行政の長官を兼ね、軍管区であり行政区でもあるその管轄地をもテマと呼ぶ。 また8世紀後半にはコンスタンティノス5世がテマから選抜した兵士をもとに首都に常備軍(タグマと呼ばれる)を整備したことで、地方軍と中央軍の二本立ての体制が復活した。外国人傭兵を部隊に編成したタグマ、地方国境に駐屯したタグマも作られた。 10世紀にはタグマが増設・強化されて領土拡大戦争の主力となった。。その一方でテマ兵士を含む自由農民が没落し、有力者が土地を広げて農民を隷属させる社会変化が進んでいた。有力者は帝国の最強兵科である重装騎兵を供給したが、貴族化して帝国の軍隊を私物化し、反乱を頻発させた。
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