チリ軍事政権との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:51 UTC 版)
「コロニア・ディグニダ」の記事における「チリ軍事政権との関係」の解説
チリ在住のカナダ人ジャーナリスト、レイク・サガリスによれば、1960年代の入植当初からコロニアは地元のチリ要人達をしばしば内部に招いてもてなした。そこには、素晴らしいヨーロッパの料理とデリケートな味付けを施されたお菓子、アンデスの麓の人里離れた大きな農業施設があった。また高性能の発電機、農作機械を扱う店、天使のような子ども達によるオーケストラと彼らが歌うコーラス、規律正しい生活文化もあった。それらは全く外の世界(チリ)とは異なっていた。 しかしコロニアは、アウグスト・ピノチェト率いる軍事政権時代のチリ政府にさえ秘密主義を貫き、周辺は有刺鉄線で高度なセンサーが付いたフェンスや探照灯、望楼で囲まれており、飛行場にバンカーと呼ばれる地下施設も存在した。さらに内部には電子機器や通信機器、ロケットランチャーを含む武器や戦車を含む兵器を隠し持ち、これらの小火器を製造する工場すら持っていた。2000年代に入りこれらの地下施設や隠し場所、フェンスが廃棄され、今はこれらの残骸が放置されている。 また度重なるナチとの関係や武器製造、性的虐待や拷問などの不穏な噂や逃亡者があり、これに対してチリ国内や西ドイツ、アメリカや日本、カナダなどの外国のジャーナリストやマスコミ、アムネスティ・インターナショナルなどの各種団体からの取材(1980年にジャーナリストの落合信彦が「20世紀最後の真実」の取材に訪れたが、コロニアは取材を拒否している)や圧力にもかかわらず、コロニアはチリ国内の容共、反共政府からはその存在が認められていた。 それは歴代政府エドゥアルド・フレイ・モンタルバ(1964-1970)、サルバドール・アジェンデ(1970-1973、容共政府指導者)、アウグスト・ピノチェト(1973-1990)、パトリシオ・エイルウィン(1990-1994)と続いた。なぜならコロニア自身が、豊富な資金とドイツ系移民のネットワークをもとに、チリ国内の裁判所、議会、警察などに強力なネットワークを築き上げたからであった。 1966年にコロニアを取材したジャーナリスト、オズワルド・ムライによれば、コロニア内の訪問帳には、チリ国内のほとんどの権力筋のサインが書かれていた。招待された彼ら皆々は、ここで一週間程度の優雅なヨーロッパの休日を楽しんでいった。軍事政権当時はピノチェトを始め、彼の右腕で秘密警察トップのマヌエル・コントレラスも、しばしばコロニアを訪れている。コロニア・ディグダと軍事政権は緊密な関係を保っていた。
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