スポーツサンボの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 13:35 UTC 版)
「サンボ (格闘技)」の記事における「スポーツサンボの歴史」の解説
サンボの創始者の1人として、帝政時代のロシアにおいて、サハリンから神学生として日本に渡り、講道館にて嘉納治五郎のもとで柔道を学んだワシリー・オシェプコフが挙げられている。彼は1930年代にソ連各地で柔道の普及活動を行なったが、1937年、スターリン大粛清の対象となり、「日本のスパイ」 という嫌疑をかけられ投獄、獄中で病死する。 サンボという名称は、もう1人のサンボの創始者である、帝政ロシア軍人であったビクトル・スピリドノフがボクシングと柔術をもとに独学で編み出した格闘技「Cамооборона без оружия(「武器を持たない自己防衛)」に由来する。1930年代に体系化し、サンボという名称が名づけられる。この格闘技は第一次世界大戦後、白兵戦の重要性に気づいたソ連赤軍に軍隊格闘術として採用され、後の「バエヴォエサンボ(Боевое самбо)」につながっていく。スピリドノフの理論的な「サンボ」とオシェプコフの実戦的な「柔道」は当時対立関係にあった。 1938年に、スポーツトレーナーの全国会合において、オシェプコフの弟子アナトリー・アルカディエビッチ・ハルランピエフがソ連式フリースタイルレスリングの創設を発表する。ハルラムピエフは会合で、「ソ連式フリースタイルレスリング」はロシアのロシアンサンボ、ジョージアのチタオバやタタール、カザフスタンのカザフシャクレス、ウズベキスタン、トルクメニスタンなどソ連各地の民族レスリングに基づいた新しい格闘技だと主張した。書籍『これがサンボだ!』ではこれらにくわえて柔道にも影響を受けているとしている。一方でその実はオシェプコフの柔道であった[要出典]。人工的国家であったソ連には、民族統合の象徴となるスポーツが必要であったのである。そして同年11月16日、全ソ体育スポーツ委員会はこのフリースタイルレスリング(борьбы вольного стиля)を認可し、ソ連全土での普及活動が認められる。この日がロシアでは国技としてのサンボ誕生日ともみなされている。第二次世界大戦後、1947年「サンボ」と改称され、これがスポーツサンボとして定着することになる。
※この「スポーツサンボの歴史」の解説は、「サンボ (格闘技)」の解説の一部です。
「スポーツサンボの歴史」を含む「サンボ (格闘技)」の記事については、「サンボ (格闘技)」の概要を参照ください。
- スポーツサンボの歴史のページへのリンク