スッラ軍上陸とは? わかりやすく解説

スッラ軍上陸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:50 UTC 版)

ガイウス・マリウス」の記事における「スッラ軍上陸」の解説

紀元前83年新たにルキウス・コルネリウス・スピキオ・アシアティクスが執政官に選出されたが、名門スピキオ家の出身という点以外は何の能力持っていなかった。ローマ本土には10万超える軍団兵召集されていたが、スッラブルンディシウム上陸した時には殆ど抵抗起きなかった。上陸したスッラ軍はメテルス家やポンペイウス父子マルクス・リキニウス・クラッススらの反乱軍合流させてローマへ向かった。スピキオは国内軍勢搔き集めてカンパニアスッラ軍と相対するが、直前になってスッラ和睦申し入れ行った交渉物別れ終わったものの、配下軍団スッラ軍に恭順する様に求めた事で結局は降伏せざるを得なくなった立て続いて指導者失った民衆派最後の希望マリウス息子小マリウスであった紀元前82年20歳であった小マリウス非常時であるとして年齢規定無視して執政官に選出された。小マリウス全土に兵の召集呼び掛けると大マリウスと共に戦った古参兵が次々と馳せ参じ、4からなる軍団編成した。しかし小マリウス性格こそ父と同じく峻厳ではあったが、明らかに軍事的経験欠いており、軍才よりも外見美しさ知られていた。小マリウスはサクリポルトゥスの戦いで勇敢に兵を指揮したが、老獪なスッラには敵わず敗北して軍の過半数失われたローマ陥落避けられない考えた小マリウスは父が助命した者を処刑する様に命じローマ市内で民衆派による更なる粛清が行われた。 サクリポルトゥスで敗れた小マリウス軍は後方プラエネステ籠城してスッラ軍がこれを兵糧攻めにしたが、その間小マリウス同僚執政官グナエウス・パピリウス・カルボがエリトリアでメテッルス軍に対して優勢に戦い進めスッラ軍の主力北方迂回してカルボ軍に向かう事とした。最後好機小マリウス開門して包囲側への攻撃行いカンパニア抵抗続けていた民衆派軍勢呼応して北上したスッラカルボ軍との戦闘部下任せてプラエネステ急行するカンパニアからの救援軍隘路誘い込み、これを打ち破って包囲突破阻止した。同じ頃にメテッルス軍が北方属州ガリア・キサルピナ占領し形成不利となったカルボ船団属州アフリカ逃れてエトルリア戦線崩壊した残され救援軍残余プラエネステから1日の距離であるローマ立て籠ろうとしたが、これでローマ市内も閥族派転じるという致命的な結果となったローマ救援者として堂々と入城したスッラはコッリナ門の攻城戦救援軍残余一掃し民衆派敗北決定的になった。小マリウスプラエネステ自害しローマ入城したスッラ埋葬されていたマリウス遺灰掘り起こすと、魂の復活避け為に父子遺灰をティヴェレ川へ流したという。

※この「スッラ軍上陸」の解説は、「ガイウス・マリウス」の解説の一部です。
「スッラ軍上陸」を含む「ガイウス・マリウス」の記事については、「ガイウス・マリウス」の概要を参照ください。

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