スッラ軍上陸
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紀元前83年、新たにルキウス・コルネリウス・スピキオ・アシアティクスが執政官に選出されたが、名門スピキオ家の出身という点以外は何の能力も持っていなかった。ローマ本土には10万を超える軍団兵が召集されていたが、スッラがブルンディシウムへ上陸した時には殆ど抵抗も起きなかった。上陸したスッラ軍はメテルス家やポンペイウス父子、マルクス・リキニウス・クラッススらの反乱軍を合流させてローマへ向かった。スピキオは国内の軍勢を搔き集めてカンパニアでスッラ軍と相対するが、直前になってスッラに和睦の申し入れを行った。交渉は物別れに終わったものの、配下の軍団がスッラ軍に恭順する様に求めた事で結局は降伏せざるを得なくなった。 立て続いて指導者を失った民衆派の最後の希望がマリウスの息子小マリウスであった。紀元前82年、20歳であった小マリウスは非常時であるとして年齢規定を無視して執政官に選出された。小マリウスが全土に兵の召集を呼び掛けると大マリウスと共に戦った古参兵が次々と馳せ参じ、4万名からなる軍団を編成した。しかし小マリウスは性格こそ父と同じく峻厳ではあったが、明らかに軍事的経験を欠いており、軍才よりも外見の美しさで知られていた。小マリウスはサクリポルトゥスの戦いで勇敢に兵を指揮したが、老獪なスッラには敵わず敗北して軍の過半数が失われた。ローマ陥落が避けられないと考えた小マリウスは父が助命した者を処刑する様に命じ、ローマ市内で民衆派による更なる粛清が行われた。 サクリポルトゥスで敗れた小マリウス軍は後方のプラエネステで籠城してスッラ軍がこれを兵糧攻めにしたが、その間に小マリウスの同僚執政官グナエウス・パピリウス・カルボがエリトリアでメテッルス軍に対して優勢に戦いを進め、スッラ軍の主力も北方に迂回してカルボ軍に向かう事とした。最後の好機に小マリウスは開門して包囲側への攻撃を行い、カンパニアで抵抗を続けていた民衆派の軍勢も呼応して北上した。スッラはカルボ軍との戦闘を部下に任せてプラエネステに急行するとカンパニアからの救援軍を隘路に誘い込み、これを打ち破って包囲突破を阻止した。同じ頃にメテッルス軍が北方の属州ガリア・キサルピナを占領し、形成不利となったカルボは船団で属州アフリカに逃れてエトルリアの戦線も崩壊した。 残された救援軍の残余はプラエネステから1日の距離であるローマに立て籠ろうとしたが、これでローマ市内も閥族派に転じるという致命的な結果となった。ローマの救援者として堂々と入城したスッラはコッリナ門の攻城戦で救援軍の残余を一掃し、民衆派の敗北は決定的になった。小マリウスはプラエネステで自害し、ローマに入城したスッラは埋葬されていたマリウスの遺灰を掘り起こすと、魂の復活を避ける為に父子の遺灰をティヴェレ川へ流したという。
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