ゴールド・ラッシュと判例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 03:59 UTC 版)
ジョージア州とチェロキー族との間の緊張関係は1829年にジョージア州ダーロネガの近くで金鉱が発見されたことで頂点に達した。このことは合衆国の歴史の中でも初めてのゴールド・ラッシュを生んだ。期待を抱いた金の探鉱士がチェロキー族の土地を通過し始め、ジョージア州政府には1802年の協定の約束を満たすよう圧力が高まった。 ジョージア州が1830年にチェロキー族の土地に州法を及ぼそうと動いたとき、問題は最高裁にまで上げられた。1831年のチェロキー族対ジョージア州事件では、最高裁はチェロキー族は独立した主権国家ではないとして上告を棄却した。しかし、1832年のウースター対ジョージア州事件では、インディアン問題が州政府の問題ではなく連邦政府のみが取り仕切るものであるので、ジョージア州がチェロキー族の領土に法を押しつけることはできないと判決した。 アンドリュー・ジャクソン大統領は最高裁に食って掛かる時に、「ジョン・マーシャル(当時の最高裁長官)は判決を下す。今度はその判決を実行させろ」と言ったといわれる。ジャクソンは本当はこのようなことを言わなかったかもしれないが、インディアン移住の政策に積極的に関わった。ジャクソンはこの頃、無効化の危機として知られることになった州の権限問題に巻き込まれていたので、ジョージア州からチェロキー族を守るために国家権力を行使しようとは思わなかった。1830年のインディアン移住法によって、アメリカ合衆国議会は大統領に東部のインディアンの土地とミシシッピ川以西の土地を交換する移住条約の交渉をする権限を与えた。ジャクソンはジョージア州との紛争をチェロキー族に移住条約に署名させる圧力に用いた。
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