ゴールド・ラッシュと白豪主義の強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:20 UTC 版)
「オーストラリアの歴史」の記事における「ゴールド・ラッシュと白豪主義の強化」の解説
1851年、エドワード・ハーグレイヴス (Edward Hammond Hargraves) がシドニーの西北西約260km地点のルイス・ポンズ・クリークで金鉱を発見した。これを聞き付けた人々が大挙して押し寄せたのを切っ掛けに、アメリカに次ぐゴールド・ラッシュが発生した。 大量の労働者が金鉱地へ流出したメルボルンでは市の機能が麻痺しかけ、対策として「市の周辺で金鉱を発見した者に賞金を与える」と布告したほどであった。この結果、バララット、ベンディゴーなどの金鉱が新たに発見され、人々の採掘熱はさらに高まった。 国家体制の未成熟なオーストラリアで発生したゴールド・ラッシュが与えた影響は、アメリカのそれに比べて遥かに大きかった。黄金の魅力に憑かれた人々が世界中から集まり、1851年時点で437,665人であった人口は、1861年には1,168,149人にまで激増した。中でも、最大級の外国人集団となった中国人の存在は欧米出身者らには脅威と映り、排斥運動に発展し、白豪主義の強化へと繋がっていく。 1854年、採掘者に対して重い採掘料を課すなどの規制に反発した鉱夫約150名が、ユーリーカ砦 (Eureka Stockade) に籠城した。12月、警察や兵が砦を攻撃し、約15分で反乱は鎮圧されたが、首謀者のほとんどは放免され、彼らの要求(普通選挙権の付与など)はほぼ全面的に認められた。
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