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オーストラリアの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/08/31 02:25 UTC 版)
(オーストラリア史 から転送)
本項では、オーストラリアの歴史(オーストラリアのれきし)について記述する。
地理的に他の大陸から隔絶されたオーストラリアは、長きにわたって西洋文明の影響を受けずにいたが、度重なる航海の結果、その存在はヨーロッパの人々の知るところとなった。はじめ流刑植民地とされた同地は、1851年の金鉱発見以来、一攫千金を夢見る多くの人々を惹き付けた。こうした過程で侵略者と先住民の、あるいは侵略者や移民同士の軋轢を経験しつつ、オーストラリアはヨーロッパ人が侵略し植民地にした国から連邦国家へと変貌を遂げるに至った。
連邦成立後は、旧宗主国イギリスと新興国アメリカ合衆国との狭間で揺れながらも独自性の模索を続け、主にアジア地域との関係強化を図っている。
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- ^ 藤川隆男ほか『オーストラリアの歴史』p.3
- ^ Robert J. King, "'The long wish'd for object' — Opening the trade to Japan, 1785-1795", The Northern Mariner / le marin du nord, vol.XX, no.1, January 2010, pp.1-35.
- ^ 関根政美ほか『概説オーストラリア史』p.55
- ^ ニュージーランドもこうした会議に参加していたが、好調な経済情勢が連邦に加わる動機を弱め、独自路線を歩むこととなった。
- ^ 同日、首相ジョゼフ・クックは「大英帝国が戦争状態にあれば、オーストラリアも同様である」と発言した。両者の声明は英豪の結束を端的に示す言葉として有名になったが、オーストラリアがわざわざ世界の裏側に兵を送ったのは、それが国益に合致すると判断したからであり、英国への忠誠だけでは血を差し出すことはできない。獨協大学教授竹田いさみは、両者の声明が対英感情を象徴している点に異論はないが、これが過度に重みを持ったために「国家イメージを歪曲させた」としている。竹田いさみ『物語 オーストラリアの歴史』pp.146-148
- ^ ジェフリー・ブレイニー『オーストラリア歴史物語』p.210
- ^ このときイギリス首相チャーチルがビルマ戦線へ兵を投入するよう試みたが、カーティンは頑強に反対して撤兵させたといわれる。しかし実際には、撤兵を決めたのはイギリス政府であった。藤川隆男ほか『オーストラリアの歴史』p.195
- ^ 1967年12月17日、ホルトは遊泳中に行方不明となった。捜索が行われたがホルトは発見されず、政府はホルトが死亡したとみられると発表。19日、マッキュエンがホルトを継いで首相に就任した。
- ^ 『読売新聞』2007年3月10日付朝刊、『朝日新聞』2007年3月14日付朝刊
オーストラリアの歴史に関連した本
- 物語オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験 (中公新書) 竹田 いさみ 中央公論新社
- オーストラリアの歴史―多文化社会の歴史の可能性を探る 世界に出会う各国=地域史 (有斐閣アルマ) 有斐閣
- オーストラリア物語―歴史と日豪交流10話 (平凡社新書) 遠藤 雅子 平凡社
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