白豪主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/25 02:51 UTC 版)
白豪主義/白濠主義(はくごうしゅぎ、英: White Australia policy)は、オーストラリアにおける白人最優先主義とそれに基づく非白人への排除政策である。狭義では1901年の移住制限法制定から1973年移民法までの政策方針を指す。広義では、先住民族アボリジニやタスマニア州のオーストラロイド系住民やカナカ人などのメラネシア系先住民[1]への迫害や隔離など、オーストラリアにおける人種差別主義の歴史全般を指す。
注釈
出典
- ^ 竹田いさみ 2000, p. 75
- ^ 竹田いさみ 2000, p. 56
- ^ 竹田いさみ 2000, p. 60
- ^ 竹田いさみ 2000, p. 64
- ^ a b c d “白豪主義(はくごうしゅぎ)とは”. コトバンク. 2020年4月20日閲覧。
- ^ 竹田いさみ 2000, pp. 76–81
- ^ 竹田いさみ 2000, p. 65
- ^ 竹田いさみ 2000, p. 46
- ^ 竹田いさみ 2000, pp. 115–117
- ^ “ドイツ領南洋群島問題:日豪関係 - [Bun45 オーストラリア辞典]”. www.let.osaka-u.ac.jp. 大阪大学大学院 文学研究科 藤川研究室. 2020年12月29日閲覧。
- ^ 『マルチカルチュラリズム(多文化主義)のゆくえ オーストラリアの人種・エスニック問題をめぐって 1』共産主義同盟(火花)〈火花〉、1998年7月 。2020年4月20日閲覧。
- ^ “「ここは私の国。とっとと出ていけ」白人女性がアジア系従業員に暴言。動画が炎上”. buzzfeed (2023年2月24日). 2023年3月2日閲覧。
- ^ a b c “「盗まれた賃金」 豪の先住民に143億円支払いで合意”. 朝日新聞. (2019年7月11日) 2020年4月20日閲覧。
- ^ 宮野弘之 (2008年9月30日). “「10人に1人は人種至上主義者」豪の大学が調査”. 産経ニュース. オリジナルの2009年9月11日時点におけるアーカイブ。 2020年4月20日閲覧。
- ^ “「留学」の名目で移民、中国人とインド人が大幅増―豪州”. Record China. (2009年10月11日) 2020年4月20日閲覧。
- ^ 平田雄介 (2019年3月19日). “「ボーナス」で3カ所目 ゲーム感覚でテロ決行 背景に白豪主義”. 産経新聞 2020年4月20日閲覧。
白豪主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:20 UTC 版)
「オーストラリアの歴史」の記事における「白豪主義」の解説
詳細は「白豪主義」を参照 大英帝国によるオーストラリア大陸侵略・植民地支配以来、アボリジニへの迫害や人種差別政策が行われ続けてきたが、19世紀後半は、白人の優越を原則とする「白豪主義 (White Australia policy) 」が強化された時代でもあった。 その大きな要因はゴールド・ラッシュである。上述の通り、中国人が金鉱採掘のため大量に流入し、競争相手たる白人採掘者との間に摩擦が生じた。白人の反感は中国人の移住制限となって現れた。対象はサトウキビ生産のため連れて来られたオセアニア諸国の人々(カナカ人)や真珠採取のための労働力となった日本人など、他の有色人種にも拡大し、大英帝国の一員であるはずのインド人にまで規制が加えられた。 その手段として用いられたのが、「ナタール方式(南アフリカのナタールで行われた方式)」と呼ばれる語学試験であった。これは、担当官が読み上げるヨーロッパの言語による文章を移住希望者に書き取らせるというもので、これによって非欧米系の移住希望者は軒並み排除された。他方で、イギリス本国やアイルランドからの移民は積極的に受容された。 こうした動きと並行して、法制の整備も進んだ。植民地政府は1855年、中国人がヴィクトリアに入国する際に課税をする移住制限を実施。この動きは周辺の植民地にも拡大し、クイーンズランドでは1877年に「中国人移民制限法」が、ニュー・サウス・ウェールズでは1896年に「有色人種制限及び取締法」が制定された。1901年に制定された連邦憲法の第51条には、移民を制限する権利や、有色人種を対象とする特別法を制定する権利を連邦が持つことが明記された。これを根拠に「連邦移民制限法」が成り、有色人種の移住制限が全土に適用されることとなった。こうしてオーストラリアは、世界で初めて人種差別を国是として法制化した連邦制をとり、その後1907年にイギリス連邦の一員としてのオーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)なった。 白豪主義は、20世紀中葉までオーストラリアの中心的イデオロギーとして機能した。20世紀には日本の軍備拡張を背景として、日本を主な排斥対象としたが、1902年に日英同盟を締結していたイギリスの対日政策とはしばしば対立した。
※この「白豪主義」の解説は、「オーストラリアの歴史」の解説の一部です。
「白豪主義」を含む「オーストラリアの歴史」の記事については、「オーストラリアの歴史」の概要を参照ください。
白豪主義と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 白豪主義のページへのリンク