コーチとして国際スポーツ大会で活躍
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「岡部平太」の記事における「コーチとして国際スポーツ大会で活躍」の解説
1925年(大正14年)著書『世界の運動界』(目黒書店)刊行。同年、マニラで行われた第7回極東選手権競技大会の陸上チーム総監督となる。この大会では審判の不公平なジャッジが横行し、憤った岡部は日本の陸上競技代表選手全員を率いて棄権退場した。 1926年(大正15年)著書『陸上競技史』(満鉄読書会)刊行。 1928年(昭和3年)大連運動場で日本とフランスの国際対抗陸上競技会(日本初の国際スポーツ大会で織田幹雄、南部忠平らが参加)を提案し成功させる。 この頃の岡部について人見絹枝(陸上選手で日本人女性初のオリンピックメダリスト)は、自著「スパイクの跡」の中で、「岡部さんの顔は何回みてもこわい。でもあの顔で仲々情に脆く、熱すればすぐ涙を流される。そこに言い知れない親しみがある。あの岡部さんの顔をみると凡てのものを見通しているかと思われる位、断乎として人に譲らない所がある。自分の意見をどこまでも主張する人である。女子の斯道(しどう)にもこんな大先輩があったらと羨ましく思われる。」と記している。 また、コーチとしては陸上の岡崎勝男(1924年パリオリンピック5000メートル競走で日本初の決勝進出、後に外務大臣)や南部忠平(1932年ロサンゼルスオリンピック三段跳金メダリスト)らを育て、当時のスポーツ界に大きく貢献した。 1929年(昭和4年)張学良と協力して日独支対抗陸上競技会を行う。 1930年(昭和5年)第9回極東選手権競技大会に陸上総監督として出場。(本大会の男子100メートルでは吉岡隆徳が優勝) 1931年(昭和6年)ヘルシンキで開催された第1回スピードスケート世界選手権に監督として出場。同年、著書『スポーツ行脚』(日本評論社)刊行。
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