コドモの新聞とは? わかりやすく解説

コドモの新聞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 14:53 UTC 版)

子供の時間」の記事における「コドモの新聞」の解説

1932年昭和7年6月1日から、新たに『コドモの新聞』の放送開始した。これは、1928年昭和3年5月20日より、毎週日曜日17時40分から20分間大阪中央放送局大阪ローカル番組として放送したコドモ日曜新聞』が前身で、時事科学スポーツなどニュースから子供向け話題選び分かり易く正し言葉放送していたが、好評だったことから、東京中央放送局より全国放送の形で放送開始する事になったのである童話作家巖谷小波久留島武彦安倍季雄らが編集嘱託として加わり、「大人向け新聞焼き直しになってならない。」との考えに立ち、地方放送局通信社から提供を受けた素材から子供向け内容選んで子供分かり易く親しみやすい話し言葉改めた上、担当者原稿読んだものをディクタフォン英語版)に録音して再確認し、子供には分かり難い表現アクセント修正してから、放送臨んだという。 放送初日6月1日は、最初に帝国議会話題取り上げ次にカナダ在住日系人少年30人が、「軍用犬軍鳩ご馳走をあげて下さい」と、25円を陸軍省送った事、さらに京都市岡崎公園にあった動物園からライオン逃げ危険なためにやむなく射殺した話題などを放送したアナウンサーには、柔らかみと親しみのある話し手として、本職アナウンサーではなく東京中央放送局児童課の職員であった関屋五十二と、童話作家村岡花子選ばれ1週間交代担当した1941年昭和16年11月28日放送で、村岡は「一週間経ったら、またお話しましょうね。では皆さんごきげんようさようなら。」と挨拶し放送終えた翌週関屋担当で、村岡次の担当12月8日からであったが、当日になって情報局より「太平洋戦争開戦大戦果を放送するのに、女性の声では意気上がらない」との申し入れがあった為、急遽男性アナウンサー担当変更となり、村岡子供たち挨拶する事も出来ないまま、9年担当した「コドモの新聞」を降板せざるを得なくなった一方関屋引き続き放送担当したが、1943年昭和18年10月以って退き以後放送局アナウンサー交代担当することとなった放送内容自体は、次第戦争話題一色になっていったが、子供分かり易い放送内容にする努力は、番組終了まで変わらなかったという。

※この「コドモの新聞」の解説は、「子供の時間」の解説の一部です。
「コドモの新聞」を含む「子供の時間」の記事については、「子供の時間」の概要を参照ください。

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