イスラエルによる妨害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 02:36 UTC 版)
「イラク原子炉爆撃事件」の記事における「イスラエルによる妨害」の解説
まずイスラエルは外交手段による解決を試み、フランス政府に技術供与を取りやめるよう要請したが、当時のフランス大統領ジスカールデスタンは、平和利用のための技術供与だとしてこれを断った。 外交による解決が不首尾に終わると、イスラエルはモサドとイスラエル国防軍の情報機関アマーンを使い、以下のような妨害工作を行ったとされる。 1979年4月、フランスのラ・セーヌ=シュル=メール港の倉庫に保管されていた、イラク向け原子炉格納容器が爆破された(犯行声明はフランスの過激派の名義だった)。 1980年6月、イラクの核開発の責任者がフランスのホテルで撲殺された。 1980年8月、原子炉開発の契約企業のローマ事務所と重役の私邸が爆破された(イスラム革命保障委員会から犯行声明があった)。 イラクの核開発に関係するフランスとイタリアの科学者宛に、イラク差出の脅迫状が送付された。 これらの妨害工作にも関わらず、原子力発電所の完成が近づいたため、イスラエルは国際法に抵触する危険のある武力攻撃を決意した。作戦上の障壁となったのは距離の問題で、当時のイスラエル空軍の主力戦闘攻撃機であったF-4Eでは航続距離が足りなかった。しかしイラン革命により発注がキャンセルされた最新鋭のF-16戦闘機をアメリカから購入できたことで、作戦が実行可能となった。
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