アンダーソンの家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 05:13 UTC 版)
「第一次レキシントンの戦い」の記事における「アンダーソンの家」の解説
アンダーソンの家は、地元新聞で「セントルイスより西では最も大きくうまく配置された住居」と表現されたことがあり、3階建て、ギリシャ復古調、レキシントンの著名工場主オリバー・アンダーソンが建てた家だった。1861年7月頃にアンダーソン家はマリガン大佐の要塞に隣接してあったその家から強制退去させられ、北軍の病院になっていた。 レキシントンの戦いの開始時点で、北軍の傷病兵100人以上がこの病院に入っていた。医療はクーリー軍医に任され、イリノイ第23連隊の従軍牧師バトラーが兵士の心の問題に対応していた。 プライスの配下にあったトマス・ハリス将軍が、アンダーソンの家の戦略的重要性を認め、9月18日にその第2師団の兵士にこの家を占領するよう命じた。マリガン大佐はこの行為が戦時法規に違背すると考えることだったので衝撃を受け、家を取り戻すよう命じた。イリノイ第23連隊B中隊、ミズーリ第13連隊B中隊、イリノイ第1騎兵隊志願兵が北軍の戦線から突撃をかけて、家を取り戻したが、その過程で大きな損失を出した。ハリスの部隊がその日にもう一度病院を取り返し、その後はミズーリ州軍の支配下にあった。 この戦闘で最も議論の多かった出来事は、北軍がアンダーソンの家に突撃を掛けたときに起こった。北軍は玄関の大階段下でミズーリ州軍兵3名を即座に処刑した。南部兵は彼らが既に降伏していたので、戦争捕虜として扱われるべきだったと主張した。北軍兵はこの家を取り返すために多くの犠牲を出しており、その南部兵はそもそも病院を攻撃したことで戦時法規に違背していたと見なしていた。 アンダーソンの家は砲弾やライフル銃弾でひどく損傷した。現在でも建物の内外で多くの弾痕を見つけることができる。
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