アメリカ滞在時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 07:36 UTC 版)
1970年(昭和45年)以降、1978年(昭和53年)までの7年から8年に及ぶアメリカでの芸術活動では、テクノロジーはテクノロジーでも、気配や整体といった人の内側にあるテクノロジーに意識を向けるようになる。その模索は、やがて自らの人体をも作品の一部とみなす、パフォーマンスを取り入れたアート作品の創出につながっていく。1974年(昭和49年)にシンセサイザー・ジャケットを着用して空を飛び跳ねるワイヤーアクションを取り入れたパフォーマンスを行い、「ニューヨーク・アヴァンギャルド・フェスティヴァル」など、様々なイベントに参加した。宇宙服を着て歩く、皮袋に入って木にぶら下がるなど、身体を張ったパフォーマンスを行っていた。 1976年(昭和51年)、生活苦から身体を壊し、死線をさまよったヨシダミノルは、以後、「絶対風景」という言葉を口にするようになる。「自分が生きているということは自分自身が絶対なわけであって、絶対というと、予想できるのは“死”。死んだつもりで、もう一辺やろう」と、自身の再出発を図った。 アメリカ滞在中の一時期、ヨシダミノルは、「耳」をモチーフにした作品で世界的に知られる彫刻家・三木富雄と共同生活を送った。二人はいつも、デビッド・ボウイのアルバム『ロウ』のレコードをBGMに、深夜まで美術館について語り明かしたという。1977年(昭和52年)夏、ヨシダは京都にある自宅建物を大空ライブ美術館と名付けて開館し、再び渡米した。大空ライブ美術館では、留守を預かった女性アーティストが活用を続けていく予定になっていたが、1978年(昭和53年)2月に三木が京都で急死したことを受けて帰国した。
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