椎名道三(しいなどうさん 1790-1858)
土木技術者、加賀・能登の用水開削を担当。
椎名道三は、新川郡小林村(現滑川市)の十村役宝田宗三郎の三男として生まれ、そののち養子に出された。自らは恵まれていたが、貧しい山村(現魚津市松倉村大熊)に育つ中で、測量・土木など身につけ、土木技術者としての道に進んだ。
養父の協力の下ではあったが、14歳の時には谷川の水を引いて20aほどの、17歳の時には4.5haの開田をして村人を驚かせたという。その後も、東福寺野、十二貫野、舟倉野などでの用水開削、加賀藩の依頼による加賀・能登の用水開削を担当した。
特に十二貫野は黒部川と布施川に挟まれた台地にあり、この地へ引水するには、相当の技術と多額の資金を必要とした。天保8年(1837)加賀藩から新田開発の主附に命じられた椎名道三は、測量調査の後、天保10年5月に工事に着手し、同12年9月には完成した。約24kmに及ぶ用水路工事の谷越えには、石管を用いた導水管で 谷を越えるサイフォンの原理を用いた。
48歳の時(1838)には、新田裁許・測量方新田勢子役に命じられた。長い肩書きはともかく、これまでの功績が認められ、その後も各地の用水開削にあたった。
残されている椎名の測量器具は、コンパス、方円分度器、大方儀、磁石盤などがあり、三角法や三角関数が用いられたと推測されるが、この高等な測量術をどのようにして学んだかは明らかになっていない。
その当時の越中には、現在の富山市水橋には伊能忠敬とも交流があり忠敬も超える技術を持っていた石黒信由(1760-1836)、幕府天文方山路主住の門人であった算学の富山藩士中田高寛(1739-1802)、天文学の西村太沖(1767-1835)らがいた。椎名は、養子に出されたとはいえ、小村の指導者である十村役の出であったことから、何らかのつながりで彼らの学問や技術を習得する機会に恵まれたのかもしれない。そして、サイフォンの原理を利用する技術のことは、既に加賀藩の板屋兵四郎(?-1653?)が辰巳用水(1632)で用いていたから、椎名がこの技術に触れることは比較的容易なことであったかもしれない。
椎名道三が生涯に開田した面積は、1200haにものぼり、現在でも黒部の人々は、彼の導いた水の恩恵を忘れることなく、これを引き継いでいる。
明治期以前の各地の測量技術者を紹介しようとすると、そのほとんどが新田開発者ということになるが、越中の椎名道三もまた土木技術者であり新田開発功労者であった。
椎名道三は、新川郡小林村(現滑川市)の十村役宝田宗三郎の三男として生まれ、そののち養子に出された。自らは恵まれていたが、貧しい山村(現魚津市松倉村大熊)に育つ中で、測量・土木など身につけ、土木技術者としての道に進んだ。
養父の協力の下ではあったが、14歳の時には谷川の水を引いて20aほどの、17歳の時には4.5haの開田をして村人を驚かせたという。その後も、東福寺野、十二貫野、舟倉野などでの用水開削、加賀藩の依頼による加賀・能登の用水開削を担当した。
特に十二貫野は黒部川と布施川に挟まれた台地にあり、この地へ引水するには、相当の技術と多額の資金を必要とした。天保8年(1837)加賀藩から新田開発の主附に命じられた椎名道三は、測量調査の後、天保10年5月に工事に着手し、同12年9月には完成した。約24kmに及ぶ用水路工事の谷越えには、石管を用いた導水管で 谷を越えるサイフォンの原理を用いた。
48歳の時(1838)には、新田裁許・測量方新田勢子役に命じられた。長い肩書きはともかく、これまでの功績が認められ、その後も各地の用水開削にあたった。
残されている椎名の測量器具は、コンパス、方円分度器、大方儀、磁石盤などがあり、三角法や三角関数が用いられたと推測されるが、この高等な測量術をどのようにして学んだかは明らかになっていない。
その当時の越中には、現在の富山市水橋には伊能忠敬とも交流があり忠敬も超える技術を持っていた石黒信由(1760-1836)、幕府天文方山路主住の門人であった算学の富山藩士中田高寛(1739-1802)、天文学の西村太沖(1767-1835)らがいた。椎名は、養子に出されたとはいえ、小村の指導者である十村役の出であったことから、何らかのつながりで彼らの学問や技術を習得する機会に恵まれたのかもしれない。そして、サイフォンの原理を利用する技術のことは、既に加賀藩の板屋兵四郎(?-1653?)が辰巳用水(1632)で用いていたから、椎名がこの技術に触れることは比較的容易なことであったかもしれない。
椎名道三が生涯に開田した面積は、1200haにものぼり、現在でも黒部の人々は、彼の導いた水の恩恵を忘れることなく、これを引き継いでいる。
明治期以前の各地の測量技術者を紹介しようとすると、そのほとんどが新田開発者ということになるが、越中の椎名道三もまた土木技術者であり新田開発功労者であった。
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