さい‐おん〔‐ヲン〕【蔡温】
蔡温(さいおん 1682-1761)
琉球王府の高官、元文検地(乾隆検地)の推進者
蔡温切手
蔡温は、琉球最高の行政ポスト「三司官」にあって、琉球王府の経営に多大な業績を残した人、そして沖縄で初めて自叙伝を書いた人でもある。測量・地図に近い分野では、本島北部(現名護市)を流れる羽地大川の改修をし、元文検地を手がけ、山林経営にも力を発揮した人として知られる。
具志頭親方文若(琉球名)こと、蔡温(唐名)は、1682年久米村(現那覇市)の名家に生まれた。
久米村は、明の時代に琉球の要請を受けて、中国の福建から来た技術者集団が帰化した人々が暮らす地域であった。
蔡温は、幼少時には勉学が嫌いであったというが、元服を迎えるころには勉学に励むようになり、次第に頭角を現すようになった。1708年(26歳)のとき、中国福州にあった琉球館に派遣され通事などとして勤めたというから、この場に推挙されるほどの器量を持つ人となっていたのだ。2年後に帰国すると、国王の教育係である国師に選ばれる。
中国へは、琉球国からの2年に1度の貢物を献上する際の進貢副使として1716年にも派遣され、そのときは1年9カ月滞在した。その後は、広い範囲で行政手腕を発揮し、順調に階段を上りつめ1728年には三司官となって王府経営にあたった。
1735年には羽地大川改修を命じられ、大量の農民を動員して3ヶ月でこれを完成させ、流域の洪水からの脅威を取り除いた。翌年(元文元年1736)には、山北(本島北部の山林)の治山治水を含めた山林経営を指導する。そして彼の指導の下で、完成までに14年を要したという元文検地(最近では、琉球で使用していた中国の年号を用いて「乾隆検地」という)に着手する。蔡温56歳の時である。
ここで要求された科学技術はどのようにして習得したのであろうか。琉球王府は、1667年から「地理・風水」を学ぶ目的で若者を中国へ留学させている。蔡温もまた、その一人であった。当時の風水は、単に吉凶判断するばかりでなく、地理に応じて無理のない都市建設や土木施工を行うものであった。
さて、元文検地のことであるが、この検地は、この当時の海岸低地部を中心に実施された大規模な耕地開発とそれに伴う集落移動があり、琉球王府がこれを把握するため、あるは王府自身がこうした開発を進めるために行われたといわれる。また、検地本来の目的である徴税のために使用された形跡がないこと、蔡温が進めていた山林経営のことから推測すると、今後守るべき森林資源把握のためにしたのではないかともいわれている。
そのとき、設置された図根点が、沖縄各地に150点ほど発見されている。「印部土手石(しるしべどていし)」(別名、ハル石)である。このときの測量は、蔡温が中国留学で習得した技術に基づいているといわれている。
ハル石
蔡温は、琉球最高の行政ポスト「三司官」にあって、琉球王府の経営に多大な業績を残した人、そして沖縄で初めて自叙伝を書いた人でもある。測量・地図に近い分野では、本島北部(現名護市)を流れる羽地大川の改修をし、元文検地を手がけ、山林経営にも力を発揮した人として知られる。
具志頭親方文若(琉球名)こと、蔡温(唐名)は、1682年久米村(現那覇市)の名家に生まれた。
久米村は、明の時代に琉球の要請を受けて、中国の福建から来た技術者集団が帰化した人々が暮らす地域であった。
蔡温は、幼少時には勉学が嫌いであったというが、元服を迎えるころには勉学に励むようになり、次第に頭角を現すようになった。1708年(26歳)のとき、中国福州にあった琉球館に派遣され通事などとして勤めたというから、この場に推挙されるほどの器量を持つ人となっていたのだ。2年後に帰国すると、国王の教育係である国師に選ばれる。
中国へは、琉球国からの2年に1度の貢物を献上する際の進貢副使として1716年にも派遣され、そのときは1年9カ月滞在した。その後は、広い範囲で行政手腕を発揮し、順調に階段を上りつめ1728年には三司官となって王府経営にあたった。
1735年には羽地大川改修を命じられ、大量の農民を動員して3ヶ月でこれを完成させ、流域の洪水からの脅威を取り除いた。翌年(元文元年1736)には、山北(本島北部の山林)の治山治水を含めた山林経営を指導する。そして彼の指導の下で、完成までに14年を要したという元文検地(最近では、琉球で使用していた中国の年号を用いて「乾隆検地」という)に着手する。蔡温56歳の時である。
ここで要求された科学技術はどのようにして習得したのであろうか。琉球王府は、1667年から「地理・風水」を学ぶ目的で若者を中国へ留学させている。蔡温もまた、その一人であった。当時の風水は、単に吉凶判断するばかりでなく、地理に応じて無理のない都市建設や土木施工を行うものであった。
さて、元文検地のことであるが、この検地は、この当時の海岸低地部を中心に実施された大規模な耕地開発とそれに伴う集落移動があり、琉球王府がこれを把握するため、あるは王府自身がこうした開発を進めるために行われたといわれる。また、検地本来の目的である徴税のために使用された形跡がないこと、蔡温が進めていた山林経営のことから推測すると、今後守るべき森林資源把握のためにしたのではないかともいわれている。
そのとき、設置された図根点が、沖縄各地に150点ほど発見されている。「印部土手石(しるしべどていし)」(別名、ハル石)である。このときの測量は、蔡温が中国留学で習得した技術に基づいているといわれている。
「さいおん」の例文・使い方・用例・文例
- さいおんのページへのリンク