『時事新報』論説の立案者と起稿者
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「脱亜論」の記事における「『時事新報』論説の立案者と起稿者」の解説
「脱亜論」が時事新報に掲載された無署名論説であることから福沢の自筆であることに疑義を挟み、論説執筆者判定を展開する研究者もいる。実際に、福沢存命中に発行された『時事新報』は約六千号にものぼり、その全てを福沢は執筆していない。また、前述の通り、福沢が脱亜論を著したとする直接の証拠は存在しない。『正続福澤全集』の編纂者石河幹明は収録した時事新報の社説について、『続福澤全集』第1巻の「時事論集例言」で以下のように説明している。 「時事新報」の社說中には先生が其趣旨を記者に語つて起草せしめられたものもあり、又記者の草したる原稿を添削して採用せられたものもあるが、元來先生の筆政は極めて嚴密にして、文字は勿論その論旨までも自身の意に適するまで改竄補正を施し、殆ど原文の形を留めないものもあつた。或は此集を注意して通讀する讀者は間々生硬不熟なる文字用語を發見することがあらう。先生の削正は常に一字一句の末にまで及んだけれども、非常に繁忙の際もしくは印刷の急を要する場合などには多少の字句は看過せられたこともあるが、併しながらかゝる場合は極めて稀れであつた。而して先生の校閲を經て社說に掲げたものでも他人の草稿に係る分はこれを省いた。 — 石河幹明、石河 (1933)、1-2頁。 さらに、石河は『続福澤全集』第5巻の「附記」で時事新報の社説における自身の役割を以下のように説明している。 私は明治十八年時事新報社に入り暫くの間は外國電報の飜譯等に從事してゐたが、同二十年頃から先生の指導の下に專ら社説を草することになつた。當時「時事新報」の社説は先生が自ら筆を執られ、或は時々記者に口授して起草せしめらるゝこともあつたが、其草稿は一々嚴密なる修正添削を施された上、紙上に掲載せしめられた。固より社説記者は私一人のみではなかつたが、私が筆に慣るゝに從つて起稿を命ぜらるゝことが多くなり、二十四五年頃からは自から草せらるゝ重要なる説の外は主として私に起稿を命ぜられ、其晩年に及んでは殆ど全く私の起稿といつてもよいほどであつた。勿論其間にも私自身の草案に成つたものも少なくなかつたが、先生は病後も私に筆記せしめられたものがある。即ち本篇中の「先生病後篇」と題する七十餘篇がそれである。三十一年九月先生の大患以後大正十一年時事新報社を辭するまで約二十何年間は私が專ら社説を擔任してゐたので、前後三十何年間に私の執筆した社説の數は何千を以て數ふるほどであつたらう。 — 石河幹明、石河 (1934)、737頁。
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