「西川たつ」で高座復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 04:02 UTC 版)
「岸沢式多津」の記事における「「西川たつ」で高座復帰」の解説
戦後、離婚して料理屋の女中をしつつ客に請われると音曲を披露して生活の糧としていたが、文芸評論家の小林秀雄が小説家・NHK文芸課長の久保田万太郎に常磐津の上手な女中の存在を話す。会うと岸沢式多津だったので久保田がNHKラジオと三越名人会に本名の西川たつで出演させ、1950年に落語協会に所属し寄席に復帰する。立花家橘之助譲りの浮世節を唄う音曲師であり、後進の指導にも力を入れた。第13回芸術祭賞受賞。浮世節「たぬき」を復活させた技芸を久保田万太郎は現代の名人と絶賛したが、当人は橘之助の芸には遠く及ばないと語っていた。 最晩年には5代目三遊亭全生にも一度だけ稽古を付けた。初めての稽古で全生は全く相手にされず、翌日訪問して自らの不明を詫びた上でもう一度稽古を願うと、今度は丁寧に教えてくれた。プロの芸人としての心構えを試していたのだろうと圓楽は述懐している。 6代目三遊亭圓生の独演会のひざがわりで出演中の人形町末廣の高座で倒れ、虎の門病院に運ばれるが翌日脳出血で逝去。出演当日、体調不良だったが、圓生夫人に「高座で死ねれば本望」と語っていた。 SPレコードは「三保の松」や「大津絵冬の夜」「浮世節」等が残されている。また戦後各放送局に録音を残している。
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