「産業政策の是非」 〜1980年代〜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 09:21 UTC 版)
「小宮隆太郎」の記事における「「産業政策の是非」 〜1980年代〜」の解説
戦後、通産省を中心として実施されてきた産業政策の有効性をめぐる議論。1980年代は日本が最も輝いていた時代であり、欧米各国が石油危機等で苦しみ、発展途上国は相変わらず貧しい国がほとんどという状況下で、戦後、劇的な経済成長を遂げ、この当時も安定成長を続けていた日本経済は、世界の賞賛の的であった。治安は良く、国民は勤勉であり、比較的平等な社会を実現し(社会主義国では不平等が広がっていた)、次々と新たな技術・製品を生み出し続けていた当時の日本(もしくは日本のシステム)を、世界各国はこぞって比較研究の対象とした。青木昌彦らによる比較制度分析も、こうした日本の異質性の解剖という時代文脈から生まれてきたと言ってよい。そして当時、そのような日本型システム(いわゆる「Jシステム」)の核と見られていたのが、東京大学法学部出身者を中心に構成されたエリート集団である日本官僚制によるさまざまな計画・指導の下で経済が動いているという物語であった。官僚機構の各種行政指導の中でも、極めて高い注目を集めたのが、大蔵省による金融行政と、通産省による産業政策であり、これらは内外の多くの識者(取り分け、保守系の評論家)から好意的に受け取られていた(村上泰亮の「開発主義」等)。このような状況下において、小宮らは、産業政策が果たした役割について、実は必ずしも望ましいものとは言えなかったという主張した。これは当時の経済成長はキャッチアップと人口移動・人口増加によるものに過ぎず、その恩恵がなくなって以降にあらわとなった産業政策の無意味さを早くから指摘したものであった。
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