「岩山鉄塔」と反対派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 08:53 UTC 版)
二度に亘る行政代執行により空港敷地(1期地区)が確保されると、反対派は1972年3月にA滑走路の延長線上で高さ62.25メートルの「岩山鉄塔」(岩山大鉄塔)を建設することで、航空機の離着陸そのものを物理的に妨害し、飛行検査も実施できないようにした。 更に反対同盟は鉄塔の共有持ち株を売り出し、全国からカンパを集めるとともに撤去手続きを煩雑化することを狙っており、戸村代表は「10万人で共有しておれば、撤去にはいちいち持ち主に通知しなければならず、そんなことをしていたら5年、10年はすぐたってしまう。仮に無理に倒そうとしても、全国から集まる持ち主が黒山の人垣を作って鉄塔を守るだろう」と揚言した。 1977年1月11日、福田内閣が閣議で年内開港を宣言し、開港の最大の障害であり反対派のシンボルでもあった「岩山鉄塔」を巡って、反対派と当局が衝突することとなる。 同年1月19日から、鉄塔撤去のための重機を運び込む道路の建設工事が始まる一方で、反対派は4月17日に三里塚第一公園で「鉄塔防衛全国総決起集会」を開催し、闘争史上最大の2万3000人を全国から集めて気勢を示した。 同年5月2日に、空港公団が航空法第49条1項違反として、鉄塔撤去の仮処分申請を千葉地方裁判所に提出し、千葉地方裁判所は5月4日に書面審理のみで仮処分を決定した。 5月6日午前3時ごろ、2100人の機動隊が鉄塔周辺を制圧・封鎖し、反対派を排除した。午前4時過ぎに現場に到着した北原鉱治事務局長(当時)に対し、千葉地裁執行官が鉄塔の検証終了と鉄塔の撤去を一方的に通告し、周囲を反対派が取り囲む中で作業が進められ、午前11時過ぎに鉄塔の撤去を完了した。このとき、鉄塔は航空法違反部分だけでなく根元から切断撤去された。 空港公団側は撤去自体は激しい抵抗に遭わずに滞りなく行えたものの、仮処分の口頭弁論を上申していたのに事前通告無しで不意打ちを受けた反対派は反発した。 1971年の行政代執行が終了して以降、定期的に開催していた反対集会においては農民らは機動隊とぶつかろうとする学生セクトに対して「今は血を流すときではない」と抑制していたが、鉄塔撤去によって農民自身のタガが外れたため、この日の集会は最初から逮捕覚悟の殺気立った闘争に変質していた。 岩山鉄塔はその後、1990年に新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(通称:成田新法、現在の成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法)第3条第1項の規定に基づく使用禁止命令によって使用禁止になった。
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