「ラインの守り」作戦
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「装甲教導師団」の記事における「「ラインの守り」作戦」の解説
1944年11月初めに装甲教導師団は、ヴァルター・モーデル元帥のB軍集団の一部であり、「バルジの戦い」として広く知られた、計画中の冬季攻勢「ラインの守り」作戦への準備を行う、ハッソ・フォン・マントイフェルの第5装甲軍に編入された。11月21日、部分的な再装備を受けた装甲教導師団は、編成地点から移動して、サヴェルヌ間隙地帯へ向かうアメリカ軍部隊へ反撃を行うよう命じられた。この折には、34輌の4号戦車と38輌のパンター戦車という戦力であった。反撃は頓挫し、装甲教導師団は戦力を大きく減じさせて、戦線から呼び戻された。 装甲教導師団と、その他の時期尚早に参画した数部隊への再装備に費やされる時間は、作戦を遅らせざるを得ないことを意味した。攻勢への準備段階で、装甲教導師団は総統護衛旅団(英語版)とともに予備に留め置かれた。攻勢開始の前日であった12月15日において、装甲教導師団はなおも多大なる戦力不足であり、2個戦車大隊の中では1個大隊のみが行動可能で、他方の大隊は元所属の第3装甲師団へと戻されていた。装甲擲弾兵連隊は双方とも、規定戦力の80パーセントの状態であった。攻撃開始時の保有戦車は57輌(27輌の4号戦車と30輌のパンター戦車)、そして4号駆逐戦車/70が20輌に留まっていた。埋め合わせとして、2個駆逐戦車大隊と1個突撃砲旅団による増強がなされた。師団の装甲偵察大隊が、戦力を満たしていた唯一の傘下部隊であった。 「ラインの守り」作戦は1944年12月16日に開始され、装甲教導師団はドイツ軍戦線の中央部の出立地点から移動した。第26国民擲弾兵師団(英語版)が当師団のために進路を開く予定であったものの、そちらはじきに動きが取れなくなり、装甲教導師団は徐行で前進することとなった。続く2日間に状況はさらに悪化し、第901装甲擲弾兵連隊はヴィルツ(英語版)に向かう道路沿いでアメリカ軍に食い止められ、第902連隊はホーシンゲン(英語版)の街で激しい抵抗に遭遇した。
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「ラインの守り」作戦
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「第6SS装甲軍」の記事における「「ラインの守り」作戦」の解説
1944年12月16日早朝。西部戦線におけるドイツ軍の反撃である「ラインの守り」作戦は始まった。第6SS装甲軍は攻勢の中核となり、ヨアヒム・パイパーSS中佐指揮のパイパー戦闘団を尖兵としてアントウェルペンを目指して進撃を開始した。だが、作戦は最初の一歩でつまづいた。国民擲弾兵師団と降下猟兵師団が米軍の戦線を破り、その後パイパー戦闘団を先頭に装甲師団が進撃する計画だったが、米軍の立ち直りが早く、戦線突破が出来なかったのである。パイパー戦闘団は進撃路を変更し、米第99歩兵師団を撃退して戦線の突破に成功した。その後パイパー戦闘団は進撃が遅れる他の部隊を尻目に地雷原を強引に突破してまで最先頭を進んだ。しかし、米軍は橋を爆破してその進撃を阻み、燃料集積所にある14万ガロンの燃料を燃やして戦闘団に利用されることを防いだ。こうした米軍の行動によって、パイパー戦闘団の進撃は止められてしまった。 その後、パイパー戦闘団は23日に後退するまでストゥモンとラ・グレーの森で米軍の攻撃に耐えた。第6SS装甲師団の主力は19日にミューズ川への突破を図って攻撃を開始したが、米軍第3機甲師団と第7機甲師団・第82空挺師団がこれを阻み、第6SS装甲軍の攻勢はここで頓挫した。作戦全般を指揮するB軍集団司令部は攻勢の主力を第5装甲軍に移したが、バストーニュで苦戦したため第6SS装甲軍から第2SS師団以外の3個装甲師団を援軍として送った。しかし、結局バストーニュは陥落せず、米軍の救援部隊の到着や天候の回復による連合国空軍の出現によって、「ラインの守り」作戦自体が失敗に終わったのである。
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