1796年9月9日の海戦 背景

1796年9月9日の海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 02:28 UTC 版)

背景

1796年初頭の時点で、フランスとその同盟国の勢力は、インド洋からほぼ完全に一掃されていた。同盟国バタヴィア共和国(オランダ)の植民地は、ほとんどが1795年のイギリス海軍の遠征により征服されていた[1]。フランスが唯一保持していた拠点がフランス島周辺の初頭であり、ここから定期的に2隻のフリゲート艦が出撃してイギリスの通商破壊を行っていた[2]。一方でこの海域における優位性に自信を持っていたイギリス海軍は、保持する軍艦を2つに分け、 ジョージ・キース・エルフィンストーン率いる大艦隊をケープ植民地サイモンズタウンに、ピーター・レーニア率いる小艦隊をオランダから奪ったマラッカに置き、東インド諸島に分散させていた[3]。イギリスを支える貿易の拠点であるインドのカルカッタマドラスボンベイには、あまり防衛体制が敷かれていなかった[4]

1796年3月4日、ピエール・セザール・シャルル・ド・セルシー海軍少将率いる、4隻のフリゲート艦と2隻のコルベット艦からなるフランスの大艦隊がロシュフォールを出発し、東洋に向かった。しかし2隻のコルベットはビスケー湾を抜ける前に喪失し、フリゲートのコカルドは座礁し、脱出したものの帰国せざるを得なくなった[5]。残ったフリゲート3隻の艦隊はラ・パルマ島で補給した後、代替のフリゲート艦ヴェルトゥを加え、敵に妨げられることもなくイギリスやポルトガルの船を捕獲しながら航行した。その過程で2隻のインディアマンイギリス東インド会社の輸送船)が、それぞれ南大西洋とインド洋西部で捕らえられている[6]。この艦隊の主目的は東インド諸島でのフランス勢力拡大ではなく、むしろその中途のフランス島にあった。フランスでは国民公会奴隷制廃止を決定していたが、農業社会で未だ奴隷が有用とされていたフランス島植民地はこれに同意せず、1795年に廃止令が島に伝えられても植民地委員会が無視を続けていたのである[7]。これを公安委員会が問題視し、廃止令を執行させるため委員のルネ=ガストン・バコ・デ・ラ・シャペルとエティエンヌ=ローラン=ピエール・バーネルに、フランソワ=ルイ・マガロン将軍率いる800人の兵をつけて送り込んむことにしたのだった[8]

6月18日にフランス島のポートルイスに到着した彼らを待っていたのは、奴隷制維持を主張する重武装した住民の大群だった。バコとバーネルは住民を攻撃するよう兵に命じたが、マガロンはそれを拒否し、結局2人は海上の小さなコルベット艦に追い返され、ヨーロッパに逃げ帰らざるを得なくなった[9]。セルシーは留まって艦隊への補給と修理を済ませ、元からフランス島に駐留していた艦隊と合流した。そのうちフリゲート艦プレネーゼとコルベット1隻をモザンビーク海峡の警備に派遣し[10]、残った6隻のフリゲート艦(ヴェルトゥ、レジェネレー、フォルテ、セーヌ、プルデンテ、シベール)および私掠スクーナーアレートを率いて7月14日に東へ出港し、ベンガル湾を目指した[11]

セイロン島に到着すると、イギリス艦隊の配置を知らないセルシーは、アレートを偵察艦として放った。しかし8月14日、アレートはドリュ艦長の見間違いがもとで、急行してきたイギリスのフリゲート艦HMSケリーズフォートを誤って攻撃し、逆に捕獲された。アレートに乗り込んだイギリス軍人たちは、船内の文書からセルシー艦隊の正確な規模と目的を知ることができた[12]。とはいえこの時点でケリーズフォートはベンガル湾にいる小さな唯一のイギリス艦に過ぎず、フランス艦隊に対処することも、直ちに同僚艦に情報を伝達することもできなかった。そこでケリーズフォートの艦長は、マドラスにイギリスの戦列艦隊がいるという誤情報を、アレートを通じてセルシーに伝えることにした。これを信じたセルシーはこの海域にとどまるのを止め、トランケバー沿岸を襲ったのちすみやかに東方へ船出した[13]

9月1日、スマトラ島北部のバンダアチェを襲ったセルシー艦隊は数隻の商船を捕らえ、さらにペナンのイギリスが支配する港に向けて進んだ。その途上の9月7日には、スマトラ島北東の海岸線で小さな商船フェイバリット号を捕らえた。翌朝、フランス艦隊の船員が戦利品としてフェイバリットからを運び出している最中に、北東方向から2隻の大型船が現れた[13]。それはリチャード・ルーカス率いるHMS アロガントと、ウィリアム・クラーク率いるHMS ヴィクトリアスからなるイギリスの小艦隊だった。いずれも、74門の砲を擁する戦列艦だった。2隻は8月初頭にエルフィンストーンの命を受けケープ植民地を出発し、中国とのイギリス交易路の保護にあたっていた。セルシー艦隊が近隣海域に入ったという知らせがペナンに入ると、ルーカスはクラークに同行を明示、マラッカ海峡でフランス艦隊を捜索していたのだった[14]


  1. ^ Clowes, p.294
  2. ^ James, p.196
  3. ^ Parkinson, p.95
  4. ^ Parkinson, p.96
  5. ^ James, p.347
  6. ^ James, p.348
  7. ^ Parkinson, p.97
  8. ^ Parkinson, p.98
  9. ^ Parkinson, p.99
  10. ^ Parkinson, p.100
  11. ^ Roche, p.33
  12. ^ James, p.349
  13. ^ a b Parkinson, p.101
  14. ^ Parkinson, p.102
  15. ^ a b James, p.350
  16. ^ a b James, p.351
  17. ^ a b James, p.352
  18. ^ a b c James, p.353
  19. ^ Clowes, p.503
  20. ^ a b c Parkinson, p.105
  21. ^ James, p.32
  22. ^ a b c James, p.354
  23. ^ a b c Parkinson, p.104





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