ローマ軍団 編制

ローマ軍団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/17 23:57 UTC 版)

編制

ローマ軍団の第15レギオー「アポロナリス」(コスプレ
紀元前509年から241年のローマ中央組織の分析  *[3]
階級 国勢調査評価財産(財産) 所有選挙権 装備

(自前品)

パトリキ (当時の貴族制)
元老院議員 400,000 sestertii (1,000,000 As
エクィテス** 400,000 sestertii 馬, ...
プレブス (平民)
First (トリアリイ) 100,000 As (100 iugera) 2 兜, 円形盾, 胴よろい、すね当て, 剣と槍
Second (プリンキペス) 75,000 As (75 iugera) 1 兜, 円形盾, すね当て, 剣と槍
Third (ハスタティ) 50,000 As (50 iugera) 1 兜, 方形盾, すね当て, 剣と槍
Fourth (leves) 25,000 As (25 iugera) 1 方形盾, 剣か槍、投げ槍
Fifth 11,000 As (11 iugera)
12,500 As (12 iugera)
1 投石具 (accensi)、投げ槍(ウェリテス)
プローレス (土地なし、無資産階級)
Proletarii 11,000 As以下 船(漕ぎ手)
* ケントゥリア民会 のシステム、 Servian constitutionの慣行である。Livy, Polybius, and Dionysius of Hallicarnasusを基に歴史家ティム・コーネルによってアレンジされた情報
同様の資料についてはen:Equites#Centuriate_Cornell_1995_380を参照の事
** エクィテスは平民である大商人や貴族など野心のある人々が利用可能なため、そういった人々に好まれた。
当時の価格として1デナリウスは10 Asが妥当。歴史家 Luuk de Ligt は、さまざまな要因で変動するが、だいたい 1 iugera の土地は 1,000 As か 100 denarii に相当するとしている。[4]

王政~共和政前中期

共和政後期までの重装歩兵は、各人の戦歴,階級、装備に応じて4つの隊列のみに分けられた。

ウェリテス(Velites)
最前列兵のことで、主に資金不足で重装備ができぬ者。偵察や前哨戦の担当。
ハスタティ(Hastati)
第一戦列兵のことで、若年者・新兵が主。
プリンキペス(Principes)
第二列で、戦闘に熟練した20代後半から30代前半の者。
トリアリイ(Triarii)
最後列で、古参の兵士。彼らはよほどのことがない限り戦闘に投入されることはなかった。

王政時代は、さらに細かく分類され、5つほどの階級が連なっていたが、ポエニ戦争が始まるまでにはこの仕組みが採用されていた。

第一、第二、最後列はそれぞれ、ローマ軍の構成単位の1つである複数のマニプルス(Manipulus、中隊)からなっていた。中隊はそれぞれケントゥリオン(Centurion百人隊長)に率いられた2つのケントゥリア(Centuria、百人隊)から構成された。ケントゥリアは名目上は100人の兵士から構成されるとされていたが、実際は100人よりも少なかった。これは特にトリアリイで顕著で、60人という部隊もあった。ケントゥリアはそれぞれ軍旗を持っており、10人からなる10個のコントゥベルニウム(Contubernium、分隊)から構成されていた。野営時の班としては、8人の兵士がテントと調理道具一式を共有していた。野営技術に長け、大規模な部隊の野営陣地が数十分間で設営、撤収が可能であった。

戦闘において、中隊は通常クィンクンクス(Quincunx)と呼ばれる格子状の隊形に整列した。プリンキペスはハスタティの左側に空いた空間を守り、同じようにトリアリイはプリンキペスの左側を守った。当初はローマ軍団は大集団としてそのまま用兵されていたが、サムニウム戦争を経て、軍団に用兵の柔軟性を持たせるために小さな集団であるマニプルスが重要視されるようになった。

共和政後期以降(マリウスの軍制改革以降)

共和政の後期に、戦術における基本的な部隊の単位としてマニプルスに替わりコホルト(Cohort、大隊)が用いられるようになった。マリウスの軍制改革により従来の市民兵的な性格から職業軍人の性格へと変貌しており、先の四隊列の区別はほとんど消滅しており、各司令官の裁量に任される事となった。大隊は6から8つのケントゥリアから構成され(第一コホルトのみ12と二倍のケントゥリア)読み書きのできる副官を補佐としたケントゥリオにより率いられていた。従来のマニプルスからこのケントゥリオが改革以降のローマ軍団の中核を成すようになる。またケントゥリオの筆頭はプリムス・ピルス(Primus Pilus、一番槍)と呼ばれる第一コホルトを率いる職業軍人であり、軍団長の顧問ともなった。

軍団は多くの野営随行者や使用人・奴隷を引き連れていたため、実際の戦闘員は4800人ほどであった。最大6000名にまで増やすことができたが、軍団の指揮官が反乱を起こすことを怖れて1000名ほどに減らされた時期も度々あった。内乱の一世紀、ポンペイウスが律儀に百人隊を定員通り(ポンペイウス派には元老院派議員がほとんどついているため)に補充していた中、カエサルの軍団だけがおよそ3500人を保有していた。これは歴戦で兵が目減りしていたことに加え、カエサルは隊の一体性・質を重視したので新兵を既存の百人隊に補充しなかったからである(代わりに新しい軍団として組織し、別方面の部下に任せた)。


注釈

  1. ^ テマの大きさによって異なるが、1テマの兵力は約4000から約15000と言われている。

出典

  1. ^ Map”. .hypotheses.org. 2018年12月8日閲覧。
  2. ^ 読み方は主に井上浩一『ビザンツ帝国』に従った
  3. ^ Based on Livy 1.43; Dionysius of Halicarnassus IV, 16-18. First referenced by Cornell, T.J. (1995). The Beginnings of Rome: Italy and Rome from Bronze Age to the Punic Wars 1000-264 BCE, 179.
  4. ^ Ligt, Luuk /de; Northwood, S. J. (2008-01-01) (英語). People, Land, and Politics: Demographic Developments and the Transformation of Roman Italy 300 BC-AD 14. BRILL. ISBN 9004171185. https://books.google.com.ph/books?id=4toKjuTLOQUC&lpg=PA190&ots=Z0Yu3qUjCO&dq=People%20LAnd%20and%20Politics%20Luuk%20de%20ligt&pg=PA308#v=onepage&q=People%20LAnd%20and%20Politics%20Luuk%20de%20ligt&f=false 





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