ローマ軍団 歴史

ローマ軍団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 04:58 UTC 版)

歴史

ローマの軍団、地図 14年 。参照: http://f.hypotheses.org/wp-content/blogs.dir/1447/files/2014/05/Roman-legions-14-AD-Centrici-site-Keilo-Jack.jpg
ローマの軍団、地図 212年 。[1]

王政期

元来、ローマが王政であった頃の「レギオー」という言葉は、後の帝政のものとは全く異なり、召集されたローマ市民により構成される、重装歩兵、騎兵も含めたローマ軍全体を指していた。伝説によれば建国の祖ロムルスはケレレスと呼ばれる一種の親衛隊を有していたとされるが、その実在を証明する手だては今のところない。この頃の戦法は古代ギリシア伝来の重装歩兵戦術であった。また自軍の兵力の把握のためにローマ王セルウィウス・トゥッリウスケンスス(国勢調査)を行っている。のちに軍制改革が行われ、兵士を所有財産に応じて5つの階級に区分(当時、兵士各自の武具は自前で購入するのが原則だったので兵装の均一化のために所有財産で区分けすることは有効であった)、区分けされた階級はさらに100人の集団に区分けされケントゥリア(百人隊)と名づけられた。

共和政初期、中期

王制から共和制に変わると、従来の単一であった軍団が、王に代わる司令官として執政官の登場により2つに分割され、2人いた執政官がそれぞれ1つの軍団の指揮権を有する体制に変革されたと考えられている。しかしながら、共和政初期における戦争の目的はほとんどが略奪、もしくは防衛であったため、戦いにおいて軍団の総力を結集させることが可能であったかどうかは定かではない。

ローマが軍事行動を計画し戦争がより頻繁になり、また1人の執政官の指揮する軍団が2つに増やされるようになると戦争がラテン戦争サムニウム戦争などのように多方面で展開されるようになった。これに対応して紀元前4世紀、ローマ軍団の編成も改革されるようになる。

まず司令官である執政官自体が1年の任期ごとに交代する状況に対応して、指揮系統の混乱を避けるためにも陣営の設営などをマニュアル化する必要もあったため、紀元前331年からトリブヌスTribunus、師団指揮官)の制度が導入された。歩兵戦術としてはサムニウム戦争での経験から、従来のファランクス(方陣)を中心とする大集団の一斉突撃方式から、マニプルス(歩兵中隊)を中心とする小集団へと独自行動が可能な単位が変わった。これにより軍団は敵に対して柔軟に動くことが可能となり、戦術的に重要な革新を遂げることができた。またローマが戦争する際には必ず、アラエAlae)と呼ばれる同盟国の軍隊(多くの場合、不足気味の騎兵の割合が多い)に参加させ、兵力を増強するとともに同盟の結束を再確認した。

加えて兵士の編成方法も変わり、今までの財産による区分けから年齢による区分けへと変更された。騎兵など富裕階級が務める部隊は別として、歩兵部隊の最低限の兵装は国からの支給となった。また兵役期間中に仕事から離れる事に対しての損失補填として、給与も支払われる事になった。しかしながら兵役は所有財産(具体的には農地)を持つローマ市民権を持つ「市民」の義務と考えられ、財産(農地)を持たない無産階級(プロレタリ)は兵役を免除されていた。

マリウスの軍制改革

第2次ポエニ戦争以降、度重なるイタリア半島外への外征や属州の拡大により戦争が長期化し、それゆえ長期にわたって離農を強いられた兵士の貧窮化が進んだ(損失補填としての給与はあくまで最低限の生活費のため、とても足りなかった)。特に軍団の中核を担っていた中小自作農の没落によって、ローマ軍団への参加権のある市民の極端な減少が起こった。さらにそれを解決するために募集制限を下げたことで低所得層が増加し、それまでに比べ軍団の質が著しく低下し、また徴兵された自作農は財産を失い無産階級へと転落する例も増えた。一方で、外征によって獲得した土地は実質的に貴族の物となり、大土地所有者が増加し、貧富の差の拡大を招いた。元老院の一部やグラックス兄弟は、これを農地法などの農民救済策で打開しようとしたが、大土地所有者が多かった元老院では反対が多く、問題解決には至らなかった。

この現状を打開するために紀元前2世紀になると平民出身で叩き上げの軍人であるガイウス・マリウス軍制改革に着手した。マリウスはインペリウムを持つ司令官(執政官、法務官など)が指揮できる軍団の数の制限を撤廃、また従来の徴兵制を廃し志願制とした。従来は兵役義務の無かった無産階級が給与を目当てに多数志願する事になり、自作農は兵役から解放され農業に専念でき、双方を救済することができた。 なお、軍務はローマにおける政界での出世コースの第一歩でもある事から、軍制改革以前から貴族階級や騎士階級の志願兵自体は下士官クラス以上には多く見受けられ、これは改革以降も同様である。一方で共和政期の百人隊長の墓碑の中にも、無産市民を暗示する描写がされているものも見受けられる。

元老院は、軍団が持つ強大な軍事力、政治力は十分に認識していたため、イタリア本土に留まること、またルビコン川を越えてイタリアに進入することを完全に禁止する法律が制定されるほどであった。しかし軍制改革により、軍事的な才能には恵まれてはいるものの政治的能力に長けているとはいえなかったマリウスが、投票権を持つ市民でもある兵士から圧倒的支持を受け政治的に台頭するようになり、この軍団の私兵化はより政治的技能のある人物へと受け継がれていく。そして後のスッラポンペイウスカエサルのように配下の軍団を従えた有力者たちの権力闘争、そしてカエサル暗殺後のオクタウィアヌスアントニウスの内乱へと発展していった。

帝政初期

「アウグストゥス」として実質上の皇帝となったオクタウィアヌスは、すべての軍団を属州配備とした。そしてイタリア半島内に駐屯できる軍団として親衛隊を創設、自らの直属とした。この時代の1個の軍団の定員は5000人程度で、これにアウクシリアと呼ばれる非ローマ市民からなる補助兵力が加えられた。そして時代が下るにつれて定員は増員され、最大で1万5千人の軍団も出現するようになった。

軍団の持つ潜在的な政治力はその後のローマの歴史において、属州に配備された軍隊は政治的に重要な役割も演じることも可能にした。すなわち彼らの行動如何によっては、野心ある者を帝位に就かせることも排除することも可能であり、それぞれの軍団が支持する者同士が争うこともあった。例えば、69年四皇帝の年」、ウィテリウスは属州上ゲルマニア下ゲルマニアの軍団の支持を得て皇帝となったが、度重なる失政で支持を失い、アフリカ属州、属州アエギュプトゥス(エジプト)、そしてウィテリウスを憎悪するダヌーブ(ドナウ川)流域に配備されていた軍団の支持を受けたウェスパシアヌスに敗れている。同様の事態が「五皇帝の年」にも現れた。

帝政後期

ディオクレティアヌスの軍制改革以降、ローマ軍は大幅に変革される。まず歩兵単位が1000人程度と規模が縮小され、文武の官職の分離が進められた。また帝国内を脅かす蛮族に対抗するため騎兵や、コミタテンセス英語版と呼ばれる野戦機動軍が大きな役割を示すようになった

コンスタンティヌス1世の軍制改革ではプラエトリアニを解散させコミタテンセスに編成した。これによりプラエフェクトゥス・プラエトリオは軍事的機能を失い、文武官職の分離は完成した。

この時代の軍団の主要任務は、外部からの侵入から防衛・内乱の鎮圧(または参加)といったものが多く、上記のコミタテンセス以外にリミネタイ(辺境部隊)と呼ばれる部隊が国境警備などにあたっていた。 リミネタイについては所説あるが、一般的に言われる『正規軍が来るまで時間稼ぎを行う軽装兵』ではなく、地域に縛られずに展開するコミタテンセスと異なる固定配置の正規軍という位置づけであり、砦に駐屯しての警備以外にも野戦軍に合流して大規模戦闘を行うことも多かった。 逆にコミタテンセスは特定の駐屯地を持たず、駐留している都市の宿に停泊することが多く、騒乱への出動以外にリミネタイで対応しきれない脅威が出現した場合は各地の部隊が急行することで大規模な野戦軍を編成して迎撃することもあった。 騎兵が主体ではないので行軍速度に劇的な変化はないが、元首制においては特定の国境や地域に軍団単位で固定配置、大規模侵攻などの非常時には分遣隊を臨時編成または別の国境から軍団そのものが移動していたのに対し、野戦機動軍のみが移動すれば済むので管理や国境警備に負荷をかけることが少なくなっている。

東ローマ帝国

西ローマ皇帝がオドアケルによって廃位させられた後も「レギオー」の名前は東ローマ帝国で残った。しかし兵力の中心は騎兵であった。

7世紀以降相次いだイスラーム勢力やブルガリア帝国などの戦いで、東ローマの軍制は大きく変化し、古代のローマ軍団とは全く異なるものになった。中期には、地方はテマ制(軍管区制)の導入によって武装した自作農であるテマ兵[注釈 1]、首都コンスタンティノポリスには皇帝直属の4つの軍団(スコライ、エクスクービテース、アリュトモス、ヒカナトス[2])から構成される中央軍(タグマ)と皇帝親衛隊が置かれるという体制に変わった。最盛期のバシレイオス2世時代には47のテマが置かれていた。

10世紀後半から11世紀前半、東ローマ帝国は多くの遠征を行って国土を回復するが、遠征の負担に耐えられなくなった自作農民が没落し、テマ兵の担い手がいなくなってしまったコムネノス朝の時期に軍制はまた変化し、軍事力は、傭兵私兵を抱える軍事貴族が担うことになる。最終的に歩兵は傭兵が占めるようになり、1453年コンスタンティノポリス陥落時には、ジェノヴァの傭兵隊が防衛の要になっていた。


注釈

  1. ^ テマの大きさによって異なるが、1テマの兵力は約4000から約15000と言われている。

出典

  1. ^ Map”. .hypotheses.org. 2018年12月8日閲覧。
  2. ^ 読み方は主に井上浩一『ビザンツ帝国』に従った
  3. ^ Based on Livy 1.43; Dionysius of Halicarnassus IV, 16-18. First referenced by Cornell, T.J. (1995). The Beginnings of Rome: Italy and Rome from Bronze Age to the Punic Wars 1000-264 BCE, 179.
  4. ^ Ligt, Luuk /de; Northwood, S. J. (2008-01-01) (英語). People, Land, and Politics: Demographic Developments and the Transformation of Roman Italy 300 BC-AD 14. BRILL. ISBN 9004171185. https://books.google.com.ph/books?id=4toKjuTLOQUC&lpg=PA190&ots=Z0Yu3qUjCO&dq=People%20LAnd%20and%20Politics%20Luuk%20de%20ligt&pg=PA308#v=onepage&q=People%20LAnd%20and%20Politics%20Luuk%20de%20ligt&f=false 





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