鶴牧藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 04:56 UTC 版)
歴史
前史
藩主家は、徳川家康の母である於大の方の兄・水野忠清の家(江戸時代後期には駿河沼津藩主家)の分家にあたる。忠清の孫[注釈 2]の水野忠位が正徳元年(1711年)に大坂定番に任じられた際に大名に列し、婿養子の水野忠定の代で安房国北条藩(1万5000石)の藩主となった。
立藩
文政10年(1827年)5月19日、北条藩3代藩主で幕府若年寄を務めていた水野忠韶は、領地替えにより上総国市原・望陀両郡に移封された。『鶴牧藩日記』によれば、同年8月21日に椎津村に「御陣屋御居所地」を拝領した[2]。忠韶はこれに先立つ文政8年(1825年)、若年寄に就任した際に城主格が認められており[2][3]、11月26日に「椎津の御居城」を「靏牧(鶴牧)」と改称したという[2]。これにより、鶴牧藩が成立する[4]。
「鶴牧」と称することについては、水野家の屋敷(江戸藩邸[5][3]あるいは別邸[2])が江戸の早稲田鶴巻町(現在の東京都新宿区)にあったことにちなむという説がある[2][5][3]。ただし、実際に早稲田鶴巻町に藩邸はなく、単に佳字を当てただけであるという見解も示されている[2][注釈 3][注釈 4]。
忠韶は翌文政11年(1828年)5月27日に68歳で死去し、跡を養嗣子の水野忠実(酒井忠徳の次男)が継いだ。忠実は奏者番・西の丸若年寄などを歴任し、藩政においては藩財政再建のために倹約などの諸政策を講じたが、あまり効果はなかった。天保13年(1842年)1月19日に忠実は死去し、跡を嫡男の水野忠順が継いだ。
3代藩主・水野忠順は好学の藩主であったといい、藩校「修来館」を開いた[2]。
幕末・維新
戊辰戦争中の明治元年(1868年)4月、鶴牧藩領内の市原郡五井村で五井戦争が発生した。椎津村付近も戦場となり[9](戦死者2名を出したという[9])、鶴牧陣屋も外廓が炎上した[2]。鶴牧藩は新政府に恭順したが、藩士の中には藩命に背いた者もおり、瑞安寺(市原市椎津)には幕府軍として戦死した藩士5名の墓がある[9]。
明治元年(1868年)10月、上総国夷隅・埴生・長柄・山辺郡および安房国朝夷・長狭郡の散在領が上知され、代わって上総国市原・望陀両郡に新たな所領を与えられた[3]。翌年の版籍奉還で忠順は藩知事となった。忠順は官制・軍制改革を主とした藩政改革を行なった。明治3年(1870年)には姉崎海岸に塩田を開発した[2]。
明治4年(1871年)7月の廃藩置県で鶴牧藩は廃藩となり、鶴牧県が置かれた。
鶴牧県
鶴牧県の戸数は4776、人口は2万689人という(『房総通史』)[10]。明治4年(1871年)11月13日の第一次府県統合により廃止され、木更津県の一部となった[10]。
なお、1889年(明治22年)に町村制が施行された際、姉ヶ崎村・椎津村などが編成した行政村は「鶴牧村」を称した。鶴牧村は翌1891年(明治24年)に町制を施行し、姉崎町となる[11]。
歴代藩主
- 水野家
譜代。1万5000石。
注釈
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 忠清の四男・水野忠増は分知を受けて大身旗本となった[1]。忠増の子が忠位である。
- ^ 「水野家が城主格になった頃、あるとき江戸城で狼煙が上げられたが、その時に煙の中から折鶴が水野家江戸藩邸に落ちてきた。このことを記念して城を鶴牧城と命名した」といった命名伝承も語られている[6]。
- ^ 陣屋所在地の小字名は「鶴牧」で[2]、少なくとも大正期には城のあった場所が「鶴牧」の小字名と呼ばれている[7]。『上総国町村史 第一編』(1889年)では小字名は「鶴舞」と記されている[8]。
- ^ 『上総国町村史 第一編』(1889年)では小字名は「鶴舞」と記されている。
出典
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百三十一「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.848-849。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『房総における近世陣屋』, p. 56.
- ^ a b c d e “鶴牧藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 川名登. “鶴牧藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2023年7月13日閲覧。
- ^ a b c d e f “和田代官所”. 日本歴史地名大系. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 『千葉県市原郡誌』, p. 707.
- ^ 『千葉県市原郡誌』, p. 704.
- ^ 『上総国町村史 第一編』, 81/83コマ.
- ^ a b c “椎津村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月13日閲覧。
- ^ a b “鶴牧県”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月13日閲覧。
- ^ “姉崎町(近代)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 千葉県編『千葉県誌』(1919年)によれば1万6939坪[2]。.
- ^ 『房総における近世陣屋』, p. 2.
- ^ “椎津城跡”. 日本歴史地名大系. 2023年7月13日閲覧。
- ^ “正坊山城”. 城下図鑑. 2023年7月13日閲覧。
- ^ “千葉県市原市”. 余湖くんのホームページ. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 『房総における近世陣屋』, p. 55.
- ^ a b c “鶴牧藩日記”. 日本歴史地名大系. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百三十一「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.849。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第三百三十一「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.850。
- ^ “和田(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月16日閲覧。
- ^ a b c d “和田村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月16日閲覧。
- ^ a b “AN-03 鶴牧藩庁跡”. フィールドミュージアム. 市原歴史博物館. 2023年7月13日閲覧。
- ^ “姉ケ崎村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 山城喜憲 1983, p. 345.
- ^ 近藤啓吾 2009, p. 430.
- ^ 近藤啓吾 2009, p. 429.
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