鶴牧藩 領地

鶴牧藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 04:56 UTC 版)

領地

領地の変遷

1868年明治元年)の領地替えで、望陀郡1村・長柄郡1村・船井郡5村を除いて領地が入れ替わっている。

幕末

旧高旧領取調帳」の記載は1万1,177石分。下記のほか、丹波国氷上郡のうち26村が「水野壱岐守殿領」として記載。

  • 上総国
    • 望陀郡のうち - 1村(安房上総知県事を経て鶴牧藩に復帰)
    • 市原郡のうち - 12村(うち3村が菊間藩、1村が鶴舞藩、7村が安房上総知県事を経て鶴舞藩、1村が安房上総知県事を経て菊間藩に編入)
    • 夷隅郡のうち - 1村(安房上総知県事を経て大多喜藩に編入)
    • 埴生郡のうち - 1村(鶴舞藩に編入)
    • 長柄郡のうち - 31村(うち24村が安房上総知県事、3村が花房藩、2村が鶴舞藩、1村が安房上総知県事を経て花房藩に編入。1村が安房上総知県事を経て鶴牧藩に復帰)
    • 山辺郡のうち - 11村(安房上総知県事に編入)
  • 安房国
    • 長狭郡のうち - 5村(うち2村が花房藩、3村が安房上総知県事を経て花房藩に編入)
    • 朝夷郡のうち - 1村(安房上総知県事を経て長尾藩に編入)
  • 丹波国

廃藩時

「旧高旧領取調帳」の記載は7,543石分。

  • 上総国
    • 望陀郡のうち - 13村(旧旗本領2村、与力給地1村、安房上総知県事領12村【内訳は旧旗本領9村、与力給地2村、鶴牧藩領1村、幕府領1村】。なお相給が存在するため村数の合計は一致しない)
    • 市原郡のうち - 1村(旧佐貫藩西大平藩相給1村)
    • 長柄郡のうち - 2村(旧安房上総知県事領2村【内訳は旧鶴牧藩領1村、旗本領1村】)
  • 丹波国
    • 船井郡のうち - 5村
    • 天田郡のうち - 1村(旧旗本領)

椎津:陣屋と陣屋町

中世椎津城の概略図(平成28年2月市原市重要遺跡確認調査資料)。姉崎小学校の位置に鶴牧陣屋(鶴牧城)が置かれた。

鶴牧藩の藩庁は、正坊山の東麓、境川との間に立地しており、敷地はおよそ1万7000坪[注釈 5][12]。現在の市原市立姉崎小学校の敷地にあたる[2]。藩庁は陣屋仕立てであったが[13]、水野家は城主格の大名であったことから、鶴牧陣屋を「鶴牧城」を公称した[3]。陣屋の周辺には武家屋敷が設けられた[2]

中世、椎津地域には椎津城が築かれており、西上総北部の主要城郭の一つであった[14]。椎津城から谷を挟んで東にある正坊山には、中世椎津城の出城があったともされるが[15]、近世鶴牧陣屋の関連施設との説もあり、はっきりしない[16]。なお、境川を挟んだ対岸(東岸)には、江戸時代初期に姉崎藩の陣屋が置かれていたと考えられる[17]

丹波領分

鶴牧藩の領地1万5000石のうち、7000石余は丹波国にあった[18]。丹波の分領支配のため、北条藩時代の享保13年(1728年)に[5]氷上郡和田村(現在の兵庫県丹波市山南町和田)に代官所が置かれた[5][18]

鶴牧藩水野家の家祖・水野忠増は天和2年(1682年)に丹波国氷上郡に2000石の知行地を得た[5][19]。享保10年(1725年)、水野忠定のときに信濃国にあった領知が安房国内および丹波国氷上郡内に移され(この際に安房国北条を居所とし、北条藩が成立する)[5][20]、享保20年(1735年)に丹波国船井郡・天田郡・氷上郡内で3000石を加増された[20]

和田村は、戦国期に岩尾城が築かれて和田氏が在城した土地で[21]、市場町として栄えた[22]。江戸時代前期には柏原藩領となっていた時期もあるが、天和2年(1682年)から水野家領になった[22]。水野家の丹波領分では、和田村の前川家が大庄屋に、梅田家・野添家・桑村家・大島家など数家が手代に任命され[22]、代官所には藩の重役が来住した[22]

『鶴牧藩日記』は和田代官所の公式記録として編纂されたもので、内容は正徳3年(1713年)から文政12年(1829年)まで117年にわたる[18]


注釈

  1. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  2. ^ 忠清の四男・水野忠増は分知を受けて大身旗本となった[1]。忠増の子が忠位である。
  3. ^ 「水野家が城主格になった頃、あるとき江戸城で狼煙が上げられたが、その時に煙の中から折鶴が水野家江戸藩邸に落ちてきた。このことを記念して城を鶴牧城と命名した」といった命名伝承も語られている[6]
  4. ^ 陣屋所在地の小字名は「鶴牧」で[2]、少なくとも大正期には城のあった場所が「鶴牧」の小字名と呼ばれている[7]。『上総国町村史 第一編』(1889年)では小字名は「鶴舞」と記されている[8]
  5. ^ 『上総国町村史 第一編』(1889年)では小字名は「鶴舞」と記されている。

出典

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百三十一「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.848-849
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『房総における近世陣屋』, p. 56.
  3. ^ a b c d e 鶴牧藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月13日閲覧。
  4. ^ 川名登. “鶴牧藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2023年7月13日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 和田代官所”. 日本歴史地名大系. 2023年7月13日閲覧。
  6. ^ 『千葉県市原郡誌』, p. 707.
  7. ^ 『千葉県市原郡誌』, p. 704.
  8. ^ 『上総国町村史 第一編』, 81/83コマ.
  9. ^ a b c 椎津村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月13日閲覧。
  10. ^ a b 鶴牧県”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月13日閲覧。
  11. ^ 姉崎町(近代)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月13日閲覧。
  12. ^ 千葉県編『千葉県誌』(1919年)によれば1万6939坪[2]。.
  13. ^ 『房総における近世陣屋』, p. 2.
  14. ^ 椎津城跡”. 日本歴史地名大系. 2023年7月13日閲覧。
  15. ^ 正坊山城”. 城下図鑑. 2023年7月13日閲覧。
  16. ^ 千葉県市原市”. 余湖くんのホームページ. 2023年7月13日閲覧。
  17. ^ 『房総における近世陣屋』, p. 55.
  18. ^ a b c 鶴牧藩日記”. 日本歴史地名大系. 2023年7月13日閲覧。
  19. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百三十一「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.849
  20. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第三百三十一「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.850
  21. ^ 和田(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月16日閲覧。
  22. ^ a b c d 和田村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月16日閲覧。
  23. ^ a b AN-03 鶴牧藩庁跡”. フィールドミュージアム. 市原歴史博物館. 2023年7月13日閲覧。
  24. ^ 姉ケ崎村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月13日閲覧。
  25. ^ 山城喜憲 1983, p. 345.
  26. ^ 近藤啓吾 2009, p. 430.
  27. ^ 近藤啓吾 2009, p. 429.


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