高槻城 高槻城・尼崎城・明石城

高槻城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/10 09:22 UTC 版)

高槻城・尼崎城・明石城

大坂冬の陣、大坂夏の陣で豊臣勢力を駆逐した徳川家康一国一城令を布告し、畿内でも茨木城三木城等多くの城が廃城となった。逆に西国を抑える目的で、東播から摂津の地域では拠点となる城を近代城郭へ整備している。

これらの城は譜代大名が単独で実施した事業ではなく、公儀修築で全面的に城を築きなおしたと思われている。特に高槻城、尼崎城、明石城に関しては築城、修築時期が近く、城郭規模、工期など極めて似通っている点から同一人物による計画であった可能性が考えられている。

修築経過表
城名 城主 普請奉行派遣時期 普請時期 作事時期
高槻城 土岐定義 元和3年(1617年)12月 元和3年(1617年)12月 - 翌年中頃 元和4年(1618年)中頃 - 翌年初頃
尼崎城 戸田氏鉄 元和3年(1617年)10月 元和4年(1618年)1月 - 同年中頃 元和4年(1618年)中頃 - 翌年中頃
明石城 小笠原忠真 元和4年(1618年)10月 元和5年(1619年)2月 - 翌年中頃 元和5年(1619年)中頃 - 翌年初頃

史料的に高槻城と藤堂高虎の関係を明示したものは無い。しかし、その後実施される大坂城は藤堂高虎が修築したので、これら3城も藤堂高虎の手によって修築計画が立案されたのではないかと考えられている。

海外の文献に記録される高槻城

江戸時代に日本を欧州に初めて体系的に紹介したオランダ商館長エンゲルベルト・ケンペルは、1691年2月28日、長崎から江戸に行く途中、大阪から守口、枚方、橋本、淀、京都の順に旅をし、昼食をとった枚方から高槻を望み、そこに「左側のほうに、地元の君主の白い城が大変美しく際立って見えた」と記録している[4]

地名など

かつて城域であった一部が現在「城内町」という地名になっており、そこに設置された郵便局は「高槻城内郵便局[5]」という局名がついている。


  1. ^ 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、高槻市(旧樫田村を除く)を含む。「角川日本地名大辞典 27 大阪府」)
  2. ^ 「高槻城」高槻市公式HP
  3. ^ 谷口克広:織田信長家臣人名辞典第2版p257
  4. ^ 江戸参府旅行日記 (東洋文庫 303) エンゲルベルト・ケンペル (著)
  5. ^ 現在、郵便局は近傍の八幡町に移転したが名称はそのまま。


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