高岩神社 (能代市) 額田氏に関する民話

高岩神社 (能代市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 00:25 UTC 版)

額田氏に関する民話

現在の藤里町矢坂地区には次のような民話が残されている。(『藤里の民話』からの要約)

館平城の近くの町に京都付近から若い猿回しの夫婦が来た。夫婦は額田氏の城に呼ばれ芸を披露した。殿様は妻の上品さと美しさに心ひかれ横恋慕するが、身の危険を感じた夫婦は猿と共に逃げ出した。夫婦と猿は殿様の部下に矢坂神社の場所で捕まり、夫と猿は殺され、泣き叫ぶ妻は城に連れ戻されてしまう。殿様から優しい言葉で慰められた妻は、すきを見つけて城を脱出するが、崖の途中で逃げ切れないと観念して面が渕という所で藤琴川に飛び込み死んでしまう。これ以来矢坂には疫病や洪水などの不都合ばかり起きた。このため、村人は夫婦と猿の霊を祀ることにした。八坂神社にその霊を合祀し申子神社とも称して拝んで災厄を免れたという。(申子台縁起)

その後、高岩山の風呂場で殺された殿様に、村人は悪行が多かった殿様もついに悪運が尽きたのかと噂した。

高岩山の民話

ある爺が高岩山に行く途中、道路に寝ている竜をマサカリで切ってしまった。切った竜をかますに詰めたら、七かますもあったという。そのとき突然風が吹き荒れて木の葉が舞い上がり、グミの木が生えている家まで飛んでいった。それからというもの、グミの木が生えている家で田植えをすると、良かった天気も急に悪くなり必ず雨になると言われている。今でも、その家で田植えをすると雨降りになるという。(秋田の昔話・民話・世話話[1])

高岩山の僧兵が逃走した時に、寺方の子女八人が身を投じた岩を稚児岩、その谷底を地獄谷と呼ぶ。荷上場郷土誌には、その場所は加護山銀絞方役所の北にある屏風形の巨岩で、高さ数十尋と書かれている。今もちご岩と呼んでいる(秋田の昔話・民話・世話話[2])。

高岩山のその後

秋田市山内田中の補陀寺(曹洞宗)の11世天室蒼龍和尚は密乗寺廃寺を憂い、1584年に荷上場村に梅林寺を再興した。その際、宗派を曹洞宗に改めている。1681年高岩山御堂が焼失、1683年には残された密乗寺が落ち武者の失火から焼失した。その後、高岩山はこの地区共通の霊場として修験者の修行の場となっていた。しかし、明治5年1872年に修験道も禁止されることになった。

高岩神社 若水裸参り (2014年2月14日)

現在小正月には男若水裸参りが行われているが、この行事は戦時中に徴兵検査前の若者が武運や無事を祈願する為に行われていたものであった。戦後、若者の減少、流出などで1957年から途絶えていたが1990年に神社の再興を願って荷上場青年会が復活させた。さらしの下帯姿に白足袋・わらじを履き、藤琴川に入り手桶で冷水を頭からかぶり身を清めた後、賽銭を握りしめ、無言で約4km先の高岩神社まで登り、お払いを受け、無病息災・家内安全を祈願する。この行事への参加者は、地元の若者だけでなく観光客で参加する人や、遠くから参加しにくる人も多い。裸参りを3年続けて行うと願い事が叶うともされている。

また、現在この裸参りに合わせて高岩山万燈夜が行われている。これは参道からの山肌にかけて雪灯籠をともし、東日本大震災の犠牲者追悼と早期復興を祈願するものである。雪月夜にあたり一面に輝く雪灯篭の神秘的な風景が現れる。


  1. ^ 『陶説 199号』p.11-p.16、昭和44年7月発行、小野正人
  2. ^ 『しげき山本』、菅江真澄


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