高岩神社 (能代市) 概要

高岩神社 (能代市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 00:25 UTC 版)

概要

高岩神社は、高岩山(333.7m)の山中にある。現在の高岩神社は、清水寺に似た「懸造」または「舞台造」と呼ばれている造りになっている。神社の中には、久保田藩主の佐竹義和の筆による「高岩山」と書かれた額が納められており、この額は1794年に高岩神社に納められたとされる。

高岩山は、天安年間(857-859年)に円仁によって開山したとされている。享保年間(1716年-1735年)に鈴木定行と加藤政貞の2名が古跡を訪ねて巡礼した、秋田六郡三十三観音霊場の29番目に定められている。1815年に久保田藩士の淀川盛品は『秋田風土記』に高岩神社を詳細に記録し、高岩神社の木像である、阿弥陀如来像、薬師如来像、観音菩薩像は円仁の作だと記している。

現在主に、能代市二ツ井町荷上場地区の人によりこの神社は信仰されていて、地域の行事では、小正月に男若水裸参りが行われている。

『荷上場郷土史』(明治45年、石井修太郎)では、高岩山は大昔の噴火によってできた山だとしている。高岩山に隣接している国有林内の藤里町字滝の沢に、深名岱の穴というところがあって、寒冷のころには白煙が立ち積雪しないのが、噴火の証拠であるとしている。確かに、高岩山の三角点がある近辺はカルデラのような地形になっている。高岩山は修行の山であったが、明治の修験道禁止のために、男御殿女御殿近辺を唯一の祈祷所としたとある。

高岩山の遺物など

五輪堂
  • 五輪塔 - 鎌倉時代末期から室町時代初期に作られたと推定されている石塔。材質は男鹿半島西海岸の加茂の流紋岩である。
  • 大銀杏 - 五輪塔から少し沢を下りた場所にある樹齢800年以上と推定される銀杏の木。胸高周囲12m程度で、地上2mの所から5本に分岐している。近くには修行者の袈裟を乾かしたとされる袈裟掛石(四天岩)がある。この銀杏と石は、この地にあった蜜乗寺の庭木と庭石であったと伝えられている。
  • 七廻杉 - 樹齢550年と推定される大きな杉。この周囲を息を止めて7周できると、願い事が叶うとされている。
  • 径甕(けいきょう) - 昭和9年に御座堂より発掘された須恵器。須恵器と土師器の土器7個と径甕2個、四耳壺、片口鉢4個が荷揚場消防組によって発掘された。そのうち、須恵器の径甕1個が県指定の有形文化財となっている。これは茂谷山の近くにあったエヒバチ長根窯から造られた物と考えられている。また、この径甕は平賀郡の昼川邑「観音寺由来」で記述された久安5年(1150年)の年号がある須恵器や、湯沢市山田坊中の甕の森の丘の寿永3年(1184年)の銘がある経壷との類似が指摘されている[1]。この径甕は新築された道の駅ふたついに展示されている。
  • 古毛里岩(こもりいわ) - 高岩神社本堂の裏側にあり、参拝の人々がたき火をして暖を取ったとされる所。篭岩ともいう。
  • 権現岩(ごんげんいわ) - 古毛里岩の上にあり、四岩からできている。権現様の頭を納めているのでこの名前がついている。
  • 男御殿岩 - 金剛界大日如来を祀る。高岩山では最も巨大な高さ20丈と言われる岩である。昭和初期、北海道の漁場で大成した人がこの岩に鉄の鎖をつけ、この岩の山頂まで登ることができるようになった。
  • 女御殿岩 - 胎蔵界大日如来を祀る。歩いて山頂まで行ける。
  • 四廊岩 - 七廻杉の少し上にある。4つの巨石が傾いて岩屋のようになっている。中に炉も作られている。慈覚大師が異人が出会った場所とされ、37日供養して護摩を奉じる岩屋とされている。
  • 弁天岩 - 参拝路の途中にある甘池の中にある岩で、弁天を祀っている。黒雲を吐き慈覚大師の目を眩ませた大蛇が住んでいたという。甘池は末無しの水とも言われている。
  • 亀ノ子岩 - 四廊岩の少し上にある。大きな岩の表面が亀が抜け出たように穴が開いている。
  • 目洗水 - 慈覚大師が水を飲んで目を洗った清霊の泉とされる。干ばつ時にも涸れずに湧出する。
  • 来迎岩(らいげいいわ) - 目洗水の近くにある岩。慈覚大師を迎えた三尊が来た所とされる。要人が参拝する時に、里人が迎えに出る場所ともされている。
  • 籠目岩 - 男御殿、女御殿岩のふもとにある。籠目に似ている穴があり、参拝の人が銭を放って入るときは祈願成就の証とされていた。左右に胎内潜岩があり子宝を祈ったが今は墜落して無くなっている。穴は昔は猿が住んでいたとも言う。
  • 不動岩 - 不動岩の所在は現在分かっていない。一説にはこの岩は高岩山の要岩で、慈覚大師修行の後、埋封秘匿したとも言われている。

菅江真澄の記録

菅江真澄1802年この地を訪れ、詳細に記録を残している。「鳥居をくぐると、ひしひしと立つ大岩の姿は、中国の大河を描いた有名な絵画を見るのと等しかった」とか「仰ぎ見ると、吉野の金の御岳をわけのぼるのとおなじようであった」、「五輪台という麓のあたりには、密乗寺、如来寺、薬師寺、観音寺、法性寺という。五の寺のおさえる密乗寺は最も大なりしかど…」などと『しげき山本』に記している[2]

菅江真澄は高岩山の絵図を2枚残している。『二ツ井町史』によると、菅江真澄が描いた当時の樹木の樹齢はおよそ40~50年程度だとしている。また高岩神社周辺の樹木は、1960年代前半に伐採されたともしている。また、菅江真澄は高岩山にまつわる物語も記録している。権現岩(権現の窟)の中に納められている、斧作りの獅子頭の言われも記録していて、次の通りである。

仲昔の頃、陀比良(太良・たひら)という所の山奥に、春木を伐採する若者が沢山出かけ山泊まりして暮らしていた。夜になると、仕事が無いので大木の切り株を斧で獅子の頭に造った。それに、布きんや自分の着物で工夫して獅子舞の獅子頭にこしらえ、それをかぶって舞い始めた。側の者が竹を切って笛を造って吹き始め、飯筒を叩いて鼓として、歌を知っている者は歌って、皆それぞれに遊んでいるのが毎夜続いた。仕事が終わり、大急ぎで下山すると獅子頭はそのままうち捨てられたままだった。家に帰った男達はその夜から大熱を出し、物に憑かれたように早口で皆同じ事を言う。「どうして自分ばかりを山に捨てて行ったのか。雨にも濡れ、露にも濡れて大変な目にあっているぞよ」家の人々は皆驚き、いたこ女に弓を引かせて伺うと、いたこも同じ事を恐ろしげに言う。大勢で太良の山に行き、獅子頭を持ってきてこの窟におさめ修験様に祈ってもらうと、若者達の熱は直ったということである。


  1. ^ 『陶説 199号』p.11-p.16、昭和44年7月発行、小野正人
  2. ^ 『しげき山本』、菅江真澄





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