骨咄葉護 骨咄葉護の概要

骨咄葉護

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 03:33 UTC 版)

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生涯

開元22年(734年)、毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が大臣の梅録啜(ブイルク・チュル)に毒殺されたので、国人は毘伽可汗の子を立てて伊然可汗(イネル・カガン)とした。しかし、その7年後に骨咄葉護は伊然可汗を殺し[2]、代わりにその弟である登利可汗を立てたが、登利可汗もまた左殺(判闕特勤[3])によって殺されてしまう。そこで骨咄葉護は自ら立って可汗となる。

天宝742年 - 756年)の初め、東突厥内の大勢力である回紇(ウイグル)・葛邏禄(カルルク)・抜悉蜜(バシュミル)の3部族は一斉蜂起して骨咄葉護を攻め殺し、抜悉蜜の族長を推して頡跌伊施可汗(イルティリシュ・カガン)[4]とした。

参考文献


  1. ^ 葉護(ヤブグ、Yabγu)とは突厥可汗国内で可汗に次ぐ大臣クラスの地位。
  2. ^ 旧唐書』では「まもなく病死した」とあるが、『新唐書』では「即位8年で骨咄葉護に殺された」とある。
  3. ^ 烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)の父。
  4. ^ イルティリシュ・カガン(Iltiriš qaγan)とは、“国家を糾合したる可汗”の意。


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