諸司領 諸司領の概要

諸司領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/28 15:22 UTC 版)

概要

律令制における中央財政は原則として大蔵省に入った調及び大炊寮に入った年料舂米から官司の経費及び官人への給与の主要な財源となっていた。例えば、官人への給与の中核である給与制度は、位禄季禄時服は庸・調から、月料要劇料・番上粮は年料舂米から支出されていた。

ところが、奈良時代後期以後、庸調収入の悪化によって中央財政が悪化すると、それらの負担は地方に転嫁(正税交易による代替物の確保、国衙の料米からの捻出)されるようになったが解決には至らず、却って地方財政の悪化まで招いた。

そのため、平安時代元慶3年(879年)、畿内に4000町の官田を設置して官司の経費・官人への給与を捻出しようとした(「元慶官田」)が、2年後にはその一部が分割されて直接官司に与えられ、それぞれの官司が独自に財政を運営することになった。これらは要劇田諸司田などと呼ばれ、諸司領の原型となった。その後、それぞれ官司が必要な費用や物資(料物)を料国と称された諸国に割り当てる料国制を採用するようになった。ところが平安時代末期になると、戦乱の影響で諸国からの料物が急速に減少していった。そのため、代わりに諸国に便補保を設置して実質上の荘園経営に乗り出したり、供御人や商人から「上分」などの名目で課税をしたり、率分銭・関銭などを徴収した。例えば、内蔵寮内膳司は鳥や魚、大炊寮は米、造酒司は酒など、当時の一大消費地であった京都を巡る流通・販売に関与して徴税したのである。

その他にも諸国にあった公田乗田地子に由来する太政官厨家領や御稲田を背景とする大炊寮領、氷室を背景とする主水寮領、を背景とする修理職領などが存在した。また、官司請負制の展開と共に特定の公家が特定の官司の長の地位に就く(山科家内蔵頭壬生家主殿頭など)ようになると、それらの公家の私領と所属官司の所領の区別が不明確な状況で運営が行われる場合もあった。勿論、諸司領である以上、その収益は官司の運営に使われるのが前提とされ、官司の長が複数の系統によって担われていたり、長が解官されて交替となっていた場合には諸司領は後任へ引き渡しをしなければならなかった。また、諸司領は天皇に奉仕し、また天皇を中心とする朝廷組織の運営に使われている点において禁裏御料の性格も有していたから、諸司領の売却などの目的外行為が発覚した場合には、天皇は官司の長を解官した上で諸司領も没収し、更に朝廷や幕府による徳政令や公領興行令が出される場合もあった。

関連項目




「諸司領」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「諸司領」の関連用語

1
18% |||||

2
10% |||||

3
10% |||||

4
8% |||||

5
8% |||||

6
8% |||||

7
8% |||||


諸司領のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



諸司領のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの諸司領 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS