親衛隊本部 親衛隊本部の概要

親衛隊本部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 05:03 UTC 版)

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歴史

親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、1932年12月に親衛隊の様々な事務をこなす部局として「親衛隊部」(SS-Amt)を創設した[2]。親衛隊の機構に本部(Hauptamt)制度が導入されることになった後、真っ先に親衛隊部(SS-Amt)が親衛隊本部(SS-Hauptamt)に昇格した[2]。この昇格は1935年1月30日に行われている[1][3]

当初は、まさに親衛隊の「本部」であり、親衛隊の隊員の人事、親衛隊裁判所、強制収容所一般親衛隊、政治予備隊(後に親衛隊特務部隊武装親衛隊となる組織)、国境警備隊、親衛隊士官学校、隊員の訓練、隊員の福祉、など幅広く所管する部署だった[1][3]

クルト・ヴィットイエ本部長が同性愛疑惑で解任された後、アウグスト・ハイスマイヤーが本部長となり、彼の下でその規模は最大となった。しかしSS本部の職務があまりにも肥大化しすぎたため、SS本部内の各部(Amt)の独立が図られるようになった。1939年6月には親衛隊本部第2部(人事部)が親衛隊人事本部、親衛隊本部第3部(法務部)が親衛隊法務本部としてそれぞれ親衛隊本部から独立。続いて1940年9月に第1部(作戦指導)・第7部(警務部)・第11部(通信部)・第12部(供給部)・第13部(教育部)が親衛隊作戦本部として独立した。最後に1942年2月、第4部(管理部)と第9部(調達部)が親衛隊経済管理本部として独立した[3]

結果、親衛隊本部は12ある親衛隊の本部の一つにすぎなくなり、第二次世界大戦中はゴットロープ・ベルガー本部長のもとで親衛隊の隊員の募集と確保、訓練と教育を主任務とする機関となった[4][3]

歴代長官

親衛隊部(SS-Amt)時代の車両旗
親衛隊本部(SS-Hauptamt)の車両旗

親衛隊部(SS-Amt)長官

親衛隊本部(SS-Hauptamt)長官

組織図[5]

1941年時点での組織図

1939年時

本部長:アウグスト・ハイスマイヤーSS大将
官房長:ウルリヒ・グライフェルトSS中将

1944年時

本部長:ゴットロープ・ベルガーSS大将

  • A部
    • A1課(官房課)課長:ゴットロープ・ベルガーSS大将
    • A2課(医務課)課長:ベーレントSS少佐
    • A3課(法務課)課長:オットーSS中佐
  • B部
    • B1課(補充課)課長:ユルスSS中将
    • B2課(登録課)課長:ツェンナーSS少将
  • C部
    • C1課(世界観教育課)課長:ヴェーベンデルファーSS少佐
    • C2課(訓練計画課)課長:フィンクSS大尉
    • C3課(職業教育課)課長:ボルスト予備SS中佐
    • 外国課(民族ドイツ人・外国人募集課)課長:コピシュケ予備SS中佐

  1. ^ a b c d e f Yerger,p13
  2. ^ a b c 山下、44頁
  3. ^ a b c d 山下、54頁
  4. ^ a b c d Yerger,p15
  5. ^ 山下、55頁


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