血の日曜日事件 (1972年) 血の日曜日事件 (1972年)の概要

血の日曜日事件 (1972年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/18 10:09 UTC 版)

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血の日曜日事件
場所 北アイルランド ロンドンデリー県ロンドンデリー
座標 北緯54度59分49秒 西経7度19分32秒 / 北緯54.9969674度 西経7.3255581度 / 54.9969674; -7.3255581座標: 北緯54度59分49秒 西経7度19分32秒 / 北緯54.9969674度 西経7.3255581度 / 54.9969674; -7.3255581
標的 デモ参加者
日付 1972年1月30日
16時10分(UTC+0
概要 イギリス軍による市民への殺傷事件
攻撃手段 銃撃
武器 自動小銃
死亡者 14名
負傷者 13名
犯人 イギリス陸軍落下傘連隊第1大隊
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追悼日に遺族によって捧げられた旗と十字架
血の日曜日事件慰霊碑(ボグサイド地区)
ギルドホール(サビール調査本部が置かれた)

事件の概要

事件は、公判なしでの拘禁を認める政策に反対するデモの最中に発生した。

当時デモは非合法であったが、約1万人が抗議集会を予定して町の中心部にあるギルドホール広場までデモ行進を始めた。

しかし、広場の手前ではイギリス陸軍落下傘連隊第1大隊がバリケードを構築してデモ隊の侵入を阻止しており、主催者たちは混乱を避けるためにデモ隊を別方向へ誘導したが、一部はそのままバリケード前でイギリス兵たちに投石を始めた。兵士たちはゴム弾催涙ガス、放水でこれに応戦。ガスに追われた群衆の多くが事件現場となるボグサイド地区へと逃れた。この後、可能な限り多くのデモ参加者を逮捕するよう命令されていた兵士たちは、ボグサイド地区へ向かって進軍を開始。そこで銃撃が発生し、市民14名が死亡(13名が即死、1名が4ヶ月半後に死亡)、13名が銃撃や車両に撥ねられるなどして負傷した。

市民らは非武装で、5人は背後から射撃されたとも言われるが、事件の詳細については、イギリス陸軍側の主張と被害者を出した市民側の主張が対立し、議論が続いている[2]

真相の究明

2007年5月29日、マイク・ジャクソン元参謀総長(Sir Mike Jackson、当時中佐で現場の副指揮官)は、「無実の人々が射撃されたのは明らかだ(I have no doubt that innocent people were shot.)」と述べた。 [3]

2010年に下院で謝罪したキャメロン首相は、兵士たちが警告なしに発砲したこと、火炎瓶や投石による攻撃に反撃した兵士は皆無だったこと、殺傷された者の中には明らかに現場から逃れるか負傷者を助けようとしていた者がいたこと、事件後、多くの兵士たちが偽証していたことを認めた。同時に事件には計画性はなく、元IRAのリーダーで現北アイルランド自治政府副第一大臣マーティン・マクギネスが、当時サブマシンガンを持って現場にいた可能性を指摘した。ただし、マクギネス本人はそれを否定している[4]




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