葛飾北斎と甲斐国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/01 06:40 UTC 版)
北斎は甲斐国を訪れたのか
葛飾北斎が甲斐国を来訪した記録は無い[注釈 3]。
しかし、上述のように北斎は、確認されるだけで、27点の甲斐国の情景を描いた作品を残している。その中には巴山、牛石、大畑山、猪ノ鼻など、その地域でしか知られていない名物・生業を描いていること[12]や、構図・モチーフを借用できる先例のない風景を描いていること[12]、実見して速筆で写しとったような描写方法が用いられていること[12]、また甲斐国を描いた図が三点含まれる『富嶽百景』広告文(1833年(天保4年))には、各地を訪れ実見した風景であると記されている[注釈 4]点から、井澤と宮澤は、「北斎自身が目にした可能性を窺わせる」と述べる[5]。但し、「その推測を確定的なものにするには、山梨県内に伝存した北斎作品と史料発掘、北斎と甲斐を結びつける具体的な人間関係の解明、あるいは甲斐以外の国における事例検証など」を調査する必要があると纏める[14]。
参考文献
- 小林忠、大久保純一『浮世絵の鑑賞基礎知識』至文堂、1994年5月20日。
- 永田生慈「北斎旅行考」『研究紀要』第2号、財団法人北斎館 北斎研究所、2009年、4-14頁。
- 井澤英理子、宮澤富美恵編『北斎の富士 北斎と甲斐の国』山梨県立博物館、2011年。
- 井澤英理子、宮澤富美恵「北斎が描いた甲斐の国」『山梨県立博物館研究紀要』第6号、2012年3月24日、49-72頁。
外部リンク
注釈
- ^ なお、『八朔祭屋台後幕 竹林猛虎図』のみは、甲斐ゆかりの作品ではあるが、甲斐風景を描いた図ではない。
- ^ 別称に七面天女、七面大明神
- ^ 永田生慈は、北斎が江戸以外で確実に訪れた地として、宇都宮、木更津、名古屋、浦賀、小布施、訪れた可能性がある所として、伊勢、紀伊国、大坂、京都、房総、不確かであるが、言い伝えがある地として、古河・銚子(下総国)、下野国、深谷・新庄(武蔵国)、松代(信濃国)、吉野(大和国)を挙げている。甲斐国には一切言及が無いので、訪れていないと考えるのが妥当である[11]。
- ^ 「此編は翁諸州を遊歴せる比、普く勝概を捜り佳景を策め山川原野閭巷僻陋幽遽の地といへども遺漏なく其真趣を摸写し筐笥に秘蔵する縮図」[13]とあり、北斎が実見した図であると記されているが、その後に「翁僕に語りて曰く、我真面目の画訣この譜に尽くせり」とあるので、「此編は…縮図」の部分は、北斎自身の言葉ではないことになる。なお、引用文の正字は常用漢字に直した。
出典
- ^ 井澤・宮澤 2011.
- ^ 井澤・宮澤 2012.
- ^ a b 井澤・宮澤 2011, p. 24.
- ^ 井澤・宮澤 2012, p. 55.
- ^ a b c 井澤・宮澤 2012, p. 49.
- ^ 井澤・宮澤 2012, pp. 49–50.
- ^ 小林・大久保 1994, p. 139大久保純一「一枚の絵から」
- ^ 井澤・宮澤 2012, pp. 63–64.
- ^ 井澤・宮澤 2012, pp. 64–65.
- ^ 井澤・宮澤 2011, p. 29.
- ^ 永田 2009, pp. 4–14.
- ^ a b c 井澤・宮澤 2012, p. 68.
- ^ 井澤・宮澤 2012, p. 67.
- ^ 井澤・宮澤 2012, p. 69.
- 1 葛飾北斎と甲斐国とは
- 2 葛飾北斎と甲斐国の概要
- 3 北斎は甲斐国を訪れたのか
- 葛飾北斎と甲斐国のページへのリンク