茶 喫茶の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/19 22:05 UTC 版)

喫茶の歴史

中国

南北朝時代まで

茶の原産地については、四川雲南説(長江及びメコン川上流)、中国東部から東南部にかけてとの説、いずれも原産地であるという二元説がある[40]

中国で喫茶の風習が始まったのは古く、その時期は不明である。原産地に近い四川地方で最も早く普及し、長江沿いに、茶樹栽培に適した江南地方に広がったと考えられる[41]

しかし、「茶」という字が成立し全国的に通用するようになったのは代になってからであり、それまでは「荼(と)」「茗(めい)」「荈(せん)」「檟(か)」といった文字が当てられていた[42]

書籍に現れるものとしては、紀元前2世紀前漢)の『爾雅』に見られる「檟」、または、司馬相如の『凡将篇』に見られる「荈詫(セツタ)」が最初とされる。漢代の『神農本草経』果菜部上品には次のような記述がある。

苦菜。一名荼草。一名選。味苦寒。生川谷。治五蔵邪気。厭穀。胃痹。久服安心益気。聡察少臥。軽身耐老。

陶弘景は注釈書『本草経集注』の中でこれを茶のことと解した。これに対して顔師古は茶に疾病を治癒する薬効は認められないとしてこれを批判し、さらに唐代に編纂された『新修本草』も茶は木類であって菜類ではないと陶弘景の説を否定して苦菜をの仲間とした。このため、以後、苦菜をキク科ナス科の植物と考えて茶とは別物とする説が通説である。ただし、その一方で宋代の『紹興本草』などでは、苦菜(と考えられたキク科やナス科の植物)に『神農本草経』の記す薬効がないと指摘されているため、陶弘景の説を肯定する見解もある[注釈 3]

「荼」という字が苦菜ではなく現在の茶を指すと確認できる最初の例は、前漢の王褒が記した「僮約」という文章である。ここでは、使用人(僮)がしなければならない仕事を列挙した中に「荼を烹(に)る」「武陽で荼を買う」という項があるが、王褒の住む益州(現在の四川省広漢市)から100キロメートルほど離れた武陽(現在の彭山県、眉山茶の産地)まで買いに行く必要があるのは苦菜ではなく茶であると考えられる[43]。この「僮約」には神爵3年(前59年)という日付が付されており、紀元前1世紀には既に喫茶の風習があったことが分かる[44]

後漢期には茶のことを記した明確な文献はないが、代の詩人張載が「芳荼は六清に冠たり/溢味は九区に播(つた)わる/人生苟(も)し安楽せんには/茲(こ)の土(くに)聊(いささ)か娯(たの)しむ可し」という、茶の讃歌といえる詩を残している[45]南北朝時代には南朝で茶が飲まれていた。顧炎武初)によれば、南朝の代(502 - 557年)に既に「荼」から独立した「茶」の文字が現れたというが、字形成立の年代特定は難しく、仮に「茶」の字が生まれたとしても余り頻用されなかったと考えられている[41]

唐代

茶の文化を初めて体系化したのは、陸羽(? - 804年)であった[46]。南北朝が統一され、政局が安定し、民生が充実するとともに、茶が北方に広がり、「茶」の字も全国的に普及した[41]。陸羽は755年に始まった安史の乱を避け呉興(現在の浙江省湖州市)に移り住み、名茶を求めて諸方に旅をするかたわら、茶を通じて文人らと交わった。この頃『茶経』を著して、「茶は南方の嘉木なり」と述べた[47]。『茶経』には茶の飲み方として、觕茶(そちゃ)、散茶、末茶、餠茶(へいちゃ)があるとされている。觕茶はくず茶、散茶は葉茶をいうとされ、餠茶は乾燥した茶葉を圧搾して固形にしたものである。末茶(抹茶)は餠茶を搗いて粉にしたものであり、7世紀にはこの末茶が主流であったと考えられている[48]

陸羽は『茶経』の中で、野生の茶が上であり畑の茶はこれに次ぐ、陽崖(日当たりの良い山の斜面)で陰林(適当に陰を作る林)にあるもの、緑よりも紫のもの、笋のもの(タケノコの形をしたもの)、葉の巻いたものが最も上質であるとしている。湖州顧渚山の最高級の茶は「紫笋茶(しじゅんちゃ)」と呼ばれた[49]

大暦5年(770年)に、茶を朝廷に献上する貢茶が始まったとされ、地方官の関心はより高級な茶の調達に向かった[50]太湖沿岸の常州(現在の江蘇省宜興市)と湖州で産した陽羡茶は長安の都に毎年送られた[51]

一方で、茶の庶民化も進んだ。建中3年(782年)に初めて茶への課税が行われた。その後、税は廃止されたり復活したりを繰り返した[50]

宋元代

代(北宋、960年 - 1127年)になると、搗いて粉にするのではなく、茶葉を研(す)って粉にするようになり、これを研膏茶と呼ぶ。宮廷(皇帝)への献上品として、最高級の研膏茶を固形の団茶にした「竜鳳茶」が作られたが、その後蔡襄によって更に上等の「小竜団」が作られ、進貢された。献上茶には、竜脳、珍果、香草などを混ぜて香り付けしたものもあった。元豊年間(1078 - 1085年)の「密雲竜(のち瑞雲翔竜)」、大観年間(1107 - 1110年)の「御苑玉芽」「万寿竜芽」「無比寿芽」、宣和2年(1120年)の「新竜園勝雪」と次々に高級団茶が開発され、金では買えない宝として扱われた[52]

武夷山の岩肌に生える茶樹(武夷岩茶)。特に「大紅袍」は最も珍重されている。

産地としては、中唐の頃には知られていなかった福建が献上茶の筆頭となり、皇室御用の茶を栽培する北苑が福建に設けられ、「竜鳳茶」などを製造した[53]。蔡襄の著した『茶録』にも、北苑系の建安の茶が第一とされている。南宋から元にかけて、北苑が衰えると、福建北部の武夷山がこれに取って代わった[54]。武夷山は岩ばかりの山であり、わずかな土壌に生える茶が武夷岩茶として珍重された[55]

乾徳3年(965年)、宋は茶の専売制を敷いた。ただし、当初は茶の生産から運搬、流通まで官が行うこととされたが、困難であったため、後に、商人に茶を払い下げる際に徴税することとなった[56]熙寧3年(1070年)にいったん自由売買が認められたが、財政難から元豊7年(1084年)に専売制が復活した[53]

専売制は交易上も大きな意味を持った。中国本土に少し遅れて、青海付近のチベット人が茶を飲むようになった。茶を産しないチベットでは宋から茶を入手する必要があり、宋にとっては茶がに代わるチベットへの輸出品となった。宋初に、チベット系政権西夏との国境付近の原州、渭州、徳順(現在の甘粛省鎮原平涼静寧)3郡に茶と馬との交易場が設けられた。元豊6年(1083年)、茶場司と買馬司を統合した茶馬司という役所ができ、交易を管理することになった[57]。その後、茶の産地から遠く離れた塞外民族も、茶を不可欠とするようになった。肉食の塞外民族はビタミンCの補給のために茶を必要としたとの説がある[58]南宋(1127 - 1279年)の時代には、茶はチベットに対してだけではなく北のモンゴルに対しても主要な輸出品となった[59]

明代

代(1368 - 1644年)になると、太祖洪武帝洪武24年(1391年)に団茶の進貢をやめさせ、葉茶のままにするよう命じたことを機に、団茶(抹茶)は廃れた。『明史』食貨志に「旧(も)と皆な採りて之を碾(ひ)き、銀板を以て圧(おさ)え、大小の竜団を為(つく)る。太祖、其の民を労するを以て、造るを罷(や)め、惟(た)だ茶芽を採りて以て進めしむ。」とある[60]。明は尚武の精神が強い重農主義的な王朝であり、洪武帝も社会の最下層から身を起こした人物であったため、余りに洗練された贅沢な団茶を嫌ったのではないかと指摘されている[61]。また、それまでの葉茶(散茶)が、蒸して乾燥させた茶葉に湯を注いで飲む方法であり青臭さがあったのに対し、明代には、葉を釜炒りする方法が主流となり、飲みやすくなったことも、中国の茶が葉茶のみになった理由であると考えられている[62]

産地については、許次紓が17世紀初頭に書いたと思われる『茶疏』に、松蘿しょうら安徽省屯渓区西北)、虎丘江蘇省蘇州市)、龍井ロンチン浙江省杭州市付近)の茶を「香気濃郁」として挙げている[63]

清代

代(1644 – 1912年)の宮廷(紫禁城)では、夏期に龍井茶(緑茶)を飲み、冬期に普洱茶を飲んだ。江南を愛した乾隆帝(在1735-95年)も、江南への3回目の行幸で龍井を訪れ、「龍井の新茶 龍井の泉/一家の風味 烹煎(ほうせん)を称す」と始まる詩を作っている[64]。普洱茶は雲南省西双版納で生産され、緊圧茶の形で進貢された。紫禁城では、頤和園の玉泉山の水で普洱茶を煮、乳酪に加工した牛乳を加えて飲んだ[65]

後述するように、ヨーロッパで茶が飲まれ始めたのは日本の平戸島から茶葉を輸入して以降だが、非常に高価であった。そのため安い茶を求めて後期の明や清などからも輸出が始まると、多様な中国茶が知られるようになった。清代後期、18世紀から19世紀にかけて、イギリス商人が中国で盛んに茶を買い付けた[66]。当初は、中国の緑茶をそのまま仕入れ、ヨーロッパでも緑茶を飲んでいたが、18世紀初頭から中国茶の中でも抽出が簡単でヨーロッパに多い硬水に合う紅茶[注釈 4]が増え始め、18世紀半ばに紅茶の方が優勢となった[67]。イギリス商人は、福建産の茶の中でも粗悪なものをボヒア(「武夷」の転訛)と呼んだのに対し、丁寧に製茶したものを工夫茶(コンゴウ)と呼んだ[68]。福建の工夫茶の成功を見て、19世紀後半、緑茶の産地であった安徽省祁門県も、紅茶生産に転換し、祁門紅茶(キームン)が生まれた[69]

半発酵茶である烏龍茶は、福建北部の武夷山で始まった[70]が、18 - 19世紀にイギリスの買い付けに有利な福建南部の安渓で盛んに作られるようになった。安渓で産する烏龍茶の代表が鉄観音である[71]。さらに、烏龍茶は安渓から台湾に伝えられた[72][73]

清朝は乾隆22年(1757年)輸出港を広州に限定し、茶の売上げと輸出税で収益を上げた[74]。一方、茶や陶磁器の輸入によって清に対する大幅な輸入超過に陥ったイギリスは、反対商品としてインド産のアヘンを清に密輸する三角貿易を組み立てたが、このことがアヘン戦争(1840 – 1842年)を招いた[75][76][77]。以後、イギリスは南京条約によって割譲させた香港を拠点に対清通商を進めた[77]

イギリスは、清からの輸入を減らすため、インドでの茶生産も図った[78][79]。アヘン戦争後に中国内地へのアクセスが可能になると、1848年、イギリスのロバート・フォーチュン東インド会社からの委嘱を受け、インドへの移植にふさわしい茶樹の苗・種子を採集するため中国に入った[78]。彼は、中国の産茶区を巡り、安徽省の松蘿山一帯が最高の緑茶の産地であると報告している[80]。実際、19世紀後半から、インド、スリランカで本格的な茶樹栽培が始まると、中国茶は市場を失うようになった[81][82]

日本

東京国立博物館本『七十一番職人歌合』二十四番。右、僧形の「一服一銭(室町時代茶屋の原型)」が抹茶(粉茶)を勧めている。左は「煎じ物売」。狩野養信雅信父子による模写(養信歿年にあたる弘化3年[1846年]の作)。
長火鉢を囲んで茶を愉しむ(明治時代
現代の茶畑(愛知県)

茶がいつ中国から日本に伝わったのかははっきりしていないものの、公事根源の記録によると奈良時代である天平元年(729年)聖武天皇の時代に「宮中に僧を召して茶を賜った」と記されている。茶樹の栽培においても、大同元年(806年)に弘法大師が唐より茶の種子を持ち帰り、弟子の堅恵大徳が宇陀市榛原赤埴の佛隆寺に播種され、その製法を伝えられたのが「大和茶」の始まりといわれている。

また、空海も茶に親しんだことが、在唐中に求めた典籍を嵯峨天皇に献じた際の奉納表の中に記されている[83]

日本後紀』には、弘仁6年(815年)4月、嵯峨天皇の近江行幸の際、梵釈寺滋賀県大津市)の僧永忠が茶を煎じて献上したと記されている[84]。永忠は在唐35年の後、805年に帰国しており、この時に茶樹の種子あるいは苗を持ち帰ったと見られる[85]。815年6月、畿内、近江、丹波播磨の諸国に茶を植え、毎年献進することが命じられた[86][84]。『凌雲集』の嵯峨天皇御製に「詩を吟じては厭わず香茗(こうめい)を搗(つ)くを/興に乗じては偏(ひと)えに宜しく雅弾を聴くべし」との聯があり、搗いて喫していたことが分かる[87]平安朝の宮廷人も茶を飲んでいたことがいくつかの詩に残っており、菅原道真も、「煩懣(はんまん)胸腸(きょうちょう)に結び/起ちて飲む茶一椀」と詠んでいる[88][84]。しかし、遣唐使が停止されてからは、唐風のしきたりが衰え、茶もすたれていった[89]。だが、この見方については異論もあり、平安時代中期の漢詩集『本朝麗藻』に採録された大江以言園城寺を訪問した時の読まれた漢詩に「山の御厨(みくりや)の茶は熟し、暮煙興(おこ)る」とあり、平安時代末期に藤原忠通藤原周光によって編纂されたとみられる『本朝無題詩』に所収されている漢詩には11世紀から12世紀中期にかけて寺で茶を供された話を盛り込んだ詩が7首[注釈 5]存在しており、平安時代を通じて京都の寺院を中心に茶を喫する伝統が継承されてきたと考えるべきであるとする指摘がある[90]

茶の再興は、栄西が1191年に南宋)から種子や苗木を持ち帰ってからである。栄西は、1187年から5年間の2回目の渡宋中、素朴を尊ぶ寺での抹茶の飲み方を会得して帰ったと考えられる[91]。当初は薬としての用法が主であった(戦場で、現在の何倍も濃い濃度の抹茶を飲んで眠気を覚ましていた等)が、栽培が普及すると共に嗜好品として、再び飲まれるようになった。

一時(貴族社会の平安時代の遊びとして)中国のように闘茶が行われることもあったが、日本茶道の祖・南浦紹明により、中国より茶道具などと共に当時、径山寺などで盛んに行われていた茶会などの作法が伝わり、次第に場の華やかさより主人と客の精神的交流を重視した独自の茶の湯へと発展した。茶の湯は明治時代茶道と改称され、ついには女性礼儀作法の嗜みとなるまでに一般化した。

茶は江戸時代前期では贅沢品として、『慶安御触書』や『直江四季農戒書』[注釈 6]でも戒められていたが、やがて有利な現金作物として生産が増えて大いに普及した。生産者にとっては現金収入となる一方で、金肥といわれた干鰯油粕のような高窒素肥料を購入しなければならなかったので、生産地では農村への貨幣経済浸透を促した。

明治時代になって西洋文明が入ってくると、コーヒーと共に紅茶が持込まれて徐々に普及していくこととなる。昭和期に芸能マスコミの話題(人気絶頂期のピンク・レディー[注釈 7]が減量のためにウーロン茶を飲んでいると言ったこと)から半発酵茶の烏龍茶が注目を集め、伊藤園やサントリーから缶入り烏龍茶が発売されると一般的な飲み物として定着した。また、この流行のため中国では烏龍茶が主であるかのようなイメージが広がった。

缶入り烏龍茶の好評を受けて飲料メーカーはペットボトル入りの紅茶・日本茶を開発し、一つの市場を形成するに至った。家庭で急須に入れた茶葉から茶を抽出して飲むことは、茶殻の処理が面倒といった理由で敬遠されるようになったが、日本茶用ティーバッグ、家庭用に碾茶から抹茶をつくれる機械が販売されるようになっている[93]。このほかにも新しい茶製品が相次いで開発されている。

茶道は、礼儀作法が敷居が高いイメージがあり、趣味人の芸道としての存在に回帰しつつある。その一方で、茶道を気軽に日常に取り入れる動きも存在し、文化誌、婦人誌では、日本を含めた様々な茶の紹介、正式・略式・個人式の茶会の記事も紹介され、緑茶のみならず、世界の茶が紹介されている。旅茶セット、野点セットなど、趣味人だけではなく一般を対象とした道具もある。

朝鮮半島

朝鮮半島には首露王の妃である許黃玉がインドで茶の種子を持ってきたという伝説がある[94]が、新羅興徳王3年(828年)12月に大廉が茶の種子を唐から持って来て智異山に植えたという記録が最初である(『三国史記』)。しかし、緯度が高く気候が茶の栽培には適さず、生産量は限られたものであった。また、その品質も悪く、後述の『高麗図経』では「土産茶、味似苦渋不可入口(高麗産の茶は苦く渋くて、口に入れることができない)」と記されている。『三国史記』や『三国遺事』に現れる茶に関する記述は、大部分が僧侶にまつわる話であって、当時寺院を中心に喫茶が儀礼と関係して用いられていた様子が窺われる。さらに、中国王朝の使節である徐兢の記録『高麗図経』(正確には『宣和奉使高麗図経』)からは高麗の喫茶法が確認されるが、その記述が不十分なことから、当時の喫茶法については明確でない。熊倉功夫氏などは抹茶法であったと推測しているが[95]、宋時代の抹茶法では用いない「湯鼎」を使う、あるいは、明時代の茶書『製茶新譜』で団茶法(鼎や鍋で茶葉を煮出す方法)に対して用いられている動詞「烹」を使うなど、疑問点が多い(抹茶の場合は通常「点」を用いる)。

李氏朝鮮時代には崇廃仏によって仏教的な文物の多くは破棄されており、この時期に喫茶の風習も途絶えていたとみなされる場合が多い。しかし、慶尚道慶州府、全羅道羅州牧、南原都護府などで茶が生産されており、王宮では贈答用の「天池団茶」という固形茶も製造されていた(さらに「青苔銭」と呼ばれる固形茶もあったようである)。なお、日本による併合後に持ち込まれた茶の品種に対して、DNAの形質から区別される在来種を「韓国野生茶」と呼んでいる。このように李朝においても製茶自体は存続していたが、しばしば記録に登場する高級茶は中国からの輸入品であったようである。

李氏朝鮮の喫茶法は古い喫茶道具や文献資料の不足から不明な点が多く、『朝鮮王朝実録』の記録からは中国王朝の使節を迎える際に、茶を用いた儀礼(茶禮)が行われていた様子が確認されるが、儒教を国教とし仏教文化の茶文化も禁圧して消滅させ、茶を奉げる仏教儀礼の「茶礼(茶禮、チャレ)」は禁じられ、酒を奉げる献杯の儒教「祭祀」を奨励していた[96]。ただし儒教の祭祀の名前はそのまま「茶礼」と呼ばれ続けた。慶長の役の時(1598年)に明の楊鎬が南原の茶は高品質なのになぜ採取しないのかと問うの対し、「私たちには茶を飲む風習が無い」と答えている[97]。楊鎬は朝鮮茶の中国への輸出を推奨した。清への朝貢物品の中で1637年から1645年まで茶千包が含まれていたが、前述のように茶葉の産出量が少なかったことから、朝鮮で使用される茶葉は北京からの輸入品が主であった。

このように、茶の国内への供給量がごく限られたものであったことから、茶葉を用いた喫茶の習慣は上流階級や一部の寺院のみのものであった。このため、朝鮮半島で「茶」と言う場合は、中国・日本などで言われる「茶」ではなく、木の根などを煎じた薬湯や、果実を湯に浸した物(柚子茶)等を指す場合が多い(韓国伝統茶)。また、茶の代用として炒米に湯を注ぐ「こがし」も日本同様に行われていた。なお、李氏朝鮮時代の文献『朝鮮歳時記』には、中国で茶の新芽を意味する「雀舌」が、杉など他の植物の新芽を指している例も見られる。

李氏朝鮮の末期には大興寺の禅僧である草衣(초의、意恂、ko:의순、1786 - 1866)が現れ、『東茶頌』『茶神伝』などの著書を遺しているが、同書の章立は宋・明の茶書に近いものがある。

明治9年(1876年)7月に、日本政府が日朝修好条規に基づき、条規付録や通商章程を協議決定するため宮本小一外務大丞京城へ派遣した際の記録で、宮中での食事、建物、一般情勢の記録には茶について「茶(緑茶)は無い。干した生姜の粉と陳皮蜜柑の皮を干したもの)を砕いたのを煎じたものを「茶」としている。貴人はこれに人参(朝鮮人参)を入れて人参湯と称する。つまり、煎じ薬を飲むにも似ている」とある。1894年から1897年にかけ、李氏朝鮮を訪れ『朝鮮紀行』を記したイザベラ・バードは、朝鮮には茶はなく、柑橘類を溶かしたものを飲む風習があることを紹介している。

朝鮮戦争以後は、民族主義活動家で僧籍にあった崔凡述(ko:최범술、暁堂、1904 - 1979)が、草衣の茶礼を受け継いだと称して般若露茶礼を創始し、これが現代韓国の茶の儀式の基礎となっている[98]。なお、文献では例外的なものを除いて「茶道」という言葉は使われていない。朝鮮半島において、「道」の語は道教(道家思想)を意味するものであり、芸道修行意図で用いられている日本の「茶道」とは異なっている。また、朝鮮半島で抹茶(点茶法)が飲まれていた資料も無い。

インド

インド人が茶を飲んでいたことは、17世紀の文献に見える。また、大英博物館の植物標本室に、東インド会社の外科医サミュエル・ブラウンとエドワード・バルクリーが、インドのマラバル地方で1698年から1702年にかけて採集したとされる茶樹があり、中国から移植したものと考えられる[99]

19世紀後半から、インドやスリランカで本格的な茶樹栽培が始まった[81]

西ヨーロッパ

ヨーロッパの最古の茶に関する記述は、ヴェネツィアのジョヴァンニ・ラムージオによるもので、1550年代の著書『航海と旅行』第2巻で、ペルシャ人からの伝聞として「カタイのチャイ」(Chiai Catai)の効能について記している[注釈 8]。16世紀にはほかにもいくつかの文献が中国や日本の茶について「chia, chaa」などの名で紹介している。

本格的にヨーロッパに茶がもたらされたのは、1609年、オランダが日本の平戸島に商館を設け、翌年、日本茶と中国茶がジャワ経由でヨーロッパに輸出されてからである[100]。薬屋で量り売りされる高価なもので、聖職者が眠気覚ましの薬に用いたとも言われる。17世紀前半には、オランダの医師が、茶は万病に効き、長生きの妙薬だと述べたのに対し、ドイツフランスの医師が、茶の害を説いた文章を発表している[101]

イギリスでも茶について賛否両論があったが、1640年に初めてティールームが開業されるなど、徐々に浸透していった。清教徒革命の後にオリバー・クロムウェルイングランド共和国の実権を握った時、その頃に流行り始めていた茶に課税することを思いつき、実行した[102][103]。この抑制が国王政府への反抗心に作用し、茶の密輸が横行した[104]。聖職者が密輸業に加担していたことが茶の普及に拍車をかけた。クロムウェルの時代が終わったとき、イギリス国民に喫茶の習慣が確立していた[105][106]

17世紀後半には、「午後の茶」(アフタヌーン・ティー)の習慣が定着した[107]。同じ頃、緑茶よりも紅茶が優勢となった。サミュエル・ジョンソンは、1757年、喫茶否定論に反論して「私の湯沸かしは、ほとんど冷める暇はない。晩に茶で楽しみ、夜でも茶で慰み、朝でも茶で目が覚める。」と書いている[108]。イギリスでは、他のヨーロッパ諸国に比べて喫茶の風習が広く浸透したが、その理由として、イギリスの水が茶に合ったこと、フランス、イタリアのワインや、ドイツのビールに当たるような飲み物がイギリスになかったことなどが挙げられている[109]

茶貿易もオランダではなくイギリスが主導権をとり、中国産の茶がヨーロッパで主役となった[110]。中国貿易を独占していたのがイギリス東インド会社であったが、その三角貿易がアヘン戦争につながった(前述清代)。19世紀の半ばには、茶を運ぶ「クリッパー」と呼ばれる高速帆船による速度記録競争が加熱した[111]。殊勲を上げた海運業者には報奨金とブルーリボンが与えられた。この競争に世界中の港と賭け屋が夢中になったと言われる[112]

アメリカ

アメリカのイギリス植民地でも中国産の茶が飲まれていたが、フランスやオランダの商人がイギリスの課税を免れて安い密輸茶を運んでいた。イギリス本国政府は、1773年、茶法(茶税法)を制定し、密輸茶を取り締まり、東インド会社の市場独占を確立しようとした。しかしこれがアメリカ市民の反発を招いて同年、ボストン茶会事件が起こり、アメリカ独立戦争につながった[113]。この時代に茶法の反対運動が激化し、不買運動にまでつながった。代わってアメリカではコーヒーを飲む文化が広まることになった。

アメリカ合衆国は独立後、自前で中国貿易に参入。アメリカ人参、ラッコアザラシ毛皮綿花胡椒、羽紗などを清に輸出して、見返りに茶などを買った[114]。このことが太平洋航路の開発につながった。


注釈

  1. ^ 風味の違いなどから日本茶中国茶紅茶などは別の植物の葉であると誤解されることもあるが、種の違いを除き、分類学上は全て同一(ツバキ目ツバキ科ツバキ属に分類される常緑樹)である。
  2. ^ インドからアラビアを経て北アフリカにかけての地域では、日常的な飲用物としての紅茶を「チャイ」と称している。
  3. ^ (岩間眞知子 2009, p. 3-17, 201-216)。なお、岩間は『神農本草経』において、苦菜が含まれている上薬を「無毒で長期服用が可能な養命のための薬」と定義していることを指摘し、茶が上薬に該当しかつ苦菜の特徴と共通すると主張して苦菜を茶とした陶弘景の説を肯定している。
  4. ^ 紅茶は、高温の沸騰した水で抽出し、かつ硬水だと渋くならない。
  5. ^ 喫茶の話を記した7首の作者は藤原明衡(2首)、中原広俊、源経信藤原実範藤原基俊、藤原周光(編者)の6名でいずれも遣唐使の停止から100年から250年も後の人物である。
  6. ^ この二つの資料は制作年代にも疑問があり、法的な拘束力はなかったとされる。しかし、当時の支配者層は農民が茶を嗜むことは贅沢で怠惰なイメージを持っていたと思われる。[92]
  7. ^ 静岡県出身のため「茶ばたけ」というユニット名でのデビューも考えられていた。『夜のヒットスタジオ』などでの烏龍茶発言で静岡茶の売り上げにはマイナスになったが、静岡県発祥の伊藤園の業績が伸びた。
  8. ^ Ramusio, Giovanni Battista (1574). Secundo volume delle navigationi et viaggi (2nd ed.). Venetia. https://archive.org/stream/secundovolumedel00ramu#page/n37/mode/2up 
  9. ^ 詳細は「老化#糖化反応説」「サポニン」を参照。
  10. ^ タイ語で เมี่ยง [mîaŋ] と呼び、言語学者の冨田竹二郎はこの語が中国語の「茗」(茶葉の別称、あるいは茶の若葉のこと)から来たのではないかとしている。[143]

出典

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