自由の女神像 (ニューヨーク)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 14:23 UTC 版)
歴史
設計と建設
アメリカ合衆国の独立100周年(1876年)を祝い、フランスの法学者で政治家のエドゥアール・ド・ラブライエ(en)が南北戦争後の混乱に苦しんでいたアメリカに対し両国の深い友情の証となりうるモニュメントの寄贈を提案し、寄付の募集を呼びかけた。設計は1874年にラブライエからフレデリク・バルトルディに依頼された。構造設計にはパリのノートル・ダム大聖堂の修復に関わったヴィオレ・ル・デュク(1879年没)やエッフェル塔で知られるギュスターヴ・エッフェルが関わった。像のデザインはウジェーヌ・ドラクロワの絵『民衆を導く自由の女神』とバルトルディの母親をモデルにしたものである。資金集めのため記念像建造キャンペーンとして、1876年のフィラデルフィア万博にトーチを掲げる右腕の一部、1878年の万国博覧会であるパリ万博に完成頭部が展示され、大きな反響を得た。宝くじも発行され、約40万ドル相当の寄付金を集めた。1884年にフランスパリで仮組み完成され、214個に分解してフランス海軍軍用輸送船イゼール号でアメリカに運ばれた。
台座部分の建設資金は、「ニューヨーク・ワールド」紙社主ジョーゼフ・ピューリツァーが資金集めのキャンペーンを行い、アメリカ国民の寄付によってまかなわれた。台座部分の設計はアメリカのリチャード・ハントが行った。1886年10月28日に除幕式が行われた。当日はあいにくの雨であったが、グロバー・クリーブランド大統領をはじめ100万人以上の観衆が集まり、顔にかけられたフランス国旗を製作者のバルトルディが除幕した。
その後、像が置かれることになったリバティ島(当時はベドロー島と呼ばれていた)の庭園の設計はペイリーパークの設計で知られるランドスケープアーキテクトのロバート・ザイオンが担当した。
アメリカの象徴
1924年にアメリカ合衆国国定記念物、1966年にアメリカ合衆国国家歴史登録財、1984年に世界遺産(文化遺産)に登録された。以後も、アメリカだけでなく世界の自由を象徴する建造物として多くの人に知られている。
創作の方面でも、アメリカ、あるいはそれに関わる事物を象徴するものとして特に描かれる場合がある。たとえば映画『猿の惑星』第一作では最後の場面で、その星が実は地球だった、ということを示すために使われた。『ゴーストバスターズ2』では、悪霊と戦うためには地域の人間の善意が必要、といってみんなの納得する善意の象徴として自由の女神像を持ち出す。
1984年から1986年にかけて大がかりな修復が行われた。像の内部を支える鉄骨材の腐食した箇所(およそ1800)をステンレス材に交換し、構造上の問題から右腕が傾いていたのを直すため、腕の付け根付近の構造を補強するなどした。
9.11後の状況
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の際には、自由の女神像もテロの標的となる噂があった。このため2001年9月12日から2004年7月までリバティ島への上陸が禁止された。2004年8月、台座部分の内部までの公開が再開されたが、安全上の理由で頭部にある展望台の再開は見送られた。2009年7月4日、頭部の展望台は、独立記念日に合わせて、入場者数の制限付きながらも再開された[5]。
- ^ “自由の女神(じゆうのめがみ)の意味”. goo国語辞書. 2019年7月16日閲覧。
- ^ 『タイトルの魔力: 作品・人名・商品のなまえ学』中央公論新社、2001年、224頁。
- ^ “自由の女神がやってきた”. 2008年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月5日閲覧。
- ^ “Masonic Miscellanea”. 2018年11月5日閲覧。
- ^ 「「自由の女神」冠を独立記念日に公開 同時テロで中止から8年ぶり」 産経新聞2009年7月5日付. 2009年7月10日閲覧.
- ^ “米NYの観光詐欺ツアー、地元出身のアレック・ボールドウィンさんも被害に”. CNN (2019年10月9日). 2019年10月9日閲覧。
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