美保関の合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 20:07 UTC 版)
参考文献
- 香川景継『陰徳太平記 全6冊』米原正義 校注(東洋書院、1980年) ISBN 4-88594-252-7
- 河本隆政『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』勝田勝年 校注(新人物往来社 1978年)
- 河本隆政『新雲陽軍実記-戦国ロマン広瀬町シリーズ6』(ハーベスト出版、1973年) ISBN 978-4-938184-10-0
- 小瀬甫庵『太閤記-新日本古典文学大系60』檜谷昭彦・江本裕 校注(岩波書店 1996年) ISBN 4-00-240060-3
- 藤岡大拙『山中鹿介 紀行-山陰中央新報 ふるさと文庫8』(山陰中央新報社、1980年)
- 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社、1989年) ISBN 4-404-01648-4
- ^ 『雲陽軍実記』は第四巻、『陰徳太平記』は巻四十三、『太閤記』は巻十九 山中鹿助伝に記載。
- ^ その理由については諸説ある。下記の補足、隠岐為清の叛乱の謎を参照のこと。
- ^ 第1陣は、『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』共に約300人。本陣は、『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』共に約400人。『太閤記』には、兵を2手に分けた記載はない。兵は約1,000人と記載する。
- ^ 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』による。
- ^ 『陰徳太平記』や『太閤記』には、小船を少量しか集めることができなかったと記載される。集めた船の数は、『雲陽軍実記』は10艘、『陰徳太平記』は8艘、『太閤記』は2艘。
- ^ 『太閤記』より。申の刻(午後4時)に出航して、戌の刻(午後8時)に美保関まであと10町(3km)のところまで来た。
- ^ 尼子再興軍が率いた兵は、『雲陽軍実記』は251人、『陰徳太平記』は約250人(当初船に乗り込んだ人数は約400人と記載されるが、横道ら約150~160人を乗せた船は遅れて到着した)。『太閤記』は約120人。
- ^ 『太閤記』にはそのような記載はない。尼子再興軍が当初より圧倒し、山中幸盛が隠岐為清を討ち取り勝利する。
- ^ 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』とも150~160人と記載。
- ^ 『雲陽軍実記』は、逃げる兵が船の取り合いで同士討ちを行い、約60人が死んだと記載。『陰徳太平記』は、同様に同士討ちを行い、何百人が死んだと記載する。また、翌日に海の中を探したら、63人の遺体が見つかったと記載。『太閤記』は、隠岐為清、並びに組頭109名、その外865名が討ち取られたと記載。
- ^ 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』より。『太閤記』には当然この記載はない。
- ^ 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』より。『太閤記』には、捕虜についての記載はない。
- ^ 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』、どちらも約400人と記載。
- ^ a b 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』ともに同じように記載。
- ^ 朝山皓『山中鹿介』の中の「新山城を中心とする山中幸盛の活躍」より。
- ^ 『海士町村上家文書』より。
- ^ 『太閤記』巻十九 山中鹿助伝より。船も2艘しか用意できず、約120人でしか攻め込むことができなかった。
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