第一次ブルランの戦い 本格的な戦闘へ

第一次ブルランの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/30 14:11 UTC 版)

本格的な戦闘へ

北軍の序盤の攻勢

7月21日朝の状況

7月21日の朝、午前2時半にマクドウェルはハンターとハインツェルマンの師団合計約12,000名をセンタービルから進発させ、ウォーレントン・ターンパイクを通って南西に移動し、続いて北西に折れてサドリー・スプリングスに向かわせた。タイラー師団約8,000名は直接ストーン・ブリッジに向かった。経験の浅い部隊は直ちに兵站の問題に直面した。タイラー師団がターンパイク上で主力である側面攻撃軍の前進を妨害することになった。側面攻撃隊が見付けたサドリー・スプリングスに向かう道路は荷車が1台やっと通れるような所が有り不適切だった。ブルランを渡り始めたのはやっと9時半であった。タイラー軍は6時にストーン・ブリッジに到着した[11]

午前5時15分、リチャードソンの旅団はミッチェル浅瀬越しに南軍の右翼に向けて大砲を放った。そのうちの幾つかがまだ朝食を食べていたボーリガードの本部、ウィルマー・マクリーンの家に当たり、先制攻撃を打たれたことを知らされた。それにも拘わらず、当初の計画に従って北のセンタービルに残っている北軍に対して攻撃の構えをするよう命じた。お粗末な命令や伝達の不備でその命令は実行されなかった。ボーリガードはリチャード・イーウェル准将の旅団に先陣を切らせるつもりだったが、ユニオンミルズ浅瀬にいたイーウェルは、「待機し・・・命令が来れば前進する用意をしておく」よう命令を受けていた。デイビッド・ジョーンズ准将の旅団はイーウェルを支援して攻撃を始めることになっていたが、単独で前進していることになった。テオフィラス・ホームズ准将の旅団も支援することになっていたが、命令は全く届かなかった[12]

一方、南軍左翼に集結した北軍主力20,000名の前に立ちはだかったのはネイサン・"シャンクス"・エバンス大佐の旅団1,100名に過ぎなかった[13]。エバンスは部隊を割いて、橋でタイラー師団の脅威を直接抑えさせたが、その先方である北軍ロバート・シェンク准将の旅団の弱い攻撃は単なる見せかけだと疑い始めた。ボーリガードの通信隊長であり、8マイル南西のシグナルヒルから観察しているエドワード・アレクサンダー大尉から、北軍主力がサドリー・スプリングスを通って南軍の側面に回ろうとしていることを知らされた。戦闘で初めて使われた旗を用いた信号であったが、アレクサンダーは「貴隊の左翼を見張れ、配置が変わっている」という伝言を送った[14]。エバンスは急遽900名を連れてストーン・ブリッジ正面から移動し、マシューズヒルの斜面に陣取った。以前の陣地よりも北西で少し高くなった所だった。

エバンスは、バーナード・ビー准将とフランシス・バートウ大佐の2個旅団から援軍を受け、側面を2,800名で固めた[13]。この部隊が、ハンター師団の先発隊であるアンブローズ・バーンサイド准将の旅団がブルラン・クリークの浅瀬を渡りヘンリーハウスヒルの北端にあるヤングズブランチを越えて前進する動きをうまく遅滞させた。しかし、タイラー師団のウィリアム・シャーマンが率いる旅団が守備隊のいない浅瀬を渡り、南軍守備隊の右翼を衝いた。この急襲がバーンサイドとジョージ・サイクス少佐による攻撃とかみ合って、午前11時半直前に南軍を崩壊させ、南軍は算を乱してヘンリーハウスヒルまで後退した[15]

南軍の建て直し

正午から2時までのヘンリーハウスヒルへの攻撃

エバンス、ビーおよびバートウの残り部隊がマシューズヒルの陣地から撤退するときに、ジョン・インボーデン大尉砲兵隊の4門の6ポンド砲が支援し、南軍がヘンリーハウスヒルで再結集する間、北軍の前進を止めた。これらの部隊はM・ルイスの「ポーティシ」農園にあったジョンストン本部から到着したばかりのジョンストンとボーリガード両将軍と遭った[16]。南軍にとって幸運だったのは、マクドウェルがこの攻勢をさらに進めて戦略的に重要な陣地を即座に取ろうとしなかったことであり、その代わりにドーガンズリッジからジェイムズ・リケッツ大尉の砲兵中隊とチャールズ・グリフィン大尉の砲兵中隊の大砲で丘に向かって砲撃を開始した[17]

正午頃に混乱した南軍を支援するためにストーンウォール・ジャクソンのバージニア旅団が到着し、さらにウェイド・ハンプトン大佐の独立混成部隊とJ・E・B・スチュアートの騎兵隊が到着した。ジャクソンはその5個連隊を丘の反対側斜面に置いて直接砲火を浴びないようにし、防衛のために丘の頂上には13門の大砲を集めることができた。大砲を放った後はその反動で丘の反対斜面に下がり、次の弾充填を安全のうちに行うことができた[18]。一方、マクドウェルはリケッツとグリフィンの砲兵中隊にドーガンズリッジから歩兵を支援できる丘に移動するよう命じた。その11門の大砲はジャクソンの13門と300ヤード (270 m)の距離を置いて激しく撃ち合った。南北戦争の他の多くの戦闘の場合とは異なり、この時の南軍砲兵隊には利点があった。北軍の大砲は南軍の滑腔砲の射程内にあり、北軍に多いライフル砲はそのような至近距離では効果が薄く、多くの砲弾が敵の頭上を飛びすぎた[19]

砲火の犠牲者の一人は85歳の寡婦で病身のジュディス・カーター・ヘンリーで、ヘンリーハウスの寝室から動けなかった。リケッツは砲弾を受け始めたときにヘンリーハウスから飛んでくるものと判断し、大砲をその建物に向けた。一発の砲弾が寝室の壁を突き破り、寡婦の足をもぎ取り、他にも多くの傷を与えた。彼女はその日遅くに死んだ[20]

ビーはジャクソンに向かって「敵は我々を追い払おうとしている」と叫んだ。ジャクソンは元アメリカ陸軍士官でバージニア州立軍人養成大学の元教授であったが、「諸君、彼らに銃剣をくれてやろう」と答えたと言われている[21]。ビーは「そこにジャクソンが石の壁のように立っている。ここで死ぬことに決めよう。そして勝つんだ。俺に続け」と言って自部隊を鼓舞して再結集させた[22]。ビーの発言と意図については戦後も議論があり、ビーがその後の戦いで瀕死の重傷を負い、部下の士官達も記録を残さなかったので、正確なところは分かっていない。ジョンストン将軍の参謀長バーネット・レット少佐の報告では、ビーとバートウの旅団が厳しい圧力を受けているときにジャクソンが即座に助けに来なかったのでビーは怒っていたと主張した。この意見を支持する人々は、ビーの発言が軽蔑的な意味合いで「あそこに石壁のように立っているジャクソンを見よ」ということだったと信じている[23]

戦いの天王山

北軍砲兵中隊長のグリフィン大尉は南軍に対して縦射できるように、その大砲のうちの2門を戦列の南端に移動させることにした。午後3時頃、これらの大砲が南軍第33バージニア連隊に乗っ取られた。第33バージニア連隊は青い制服を着ていたので、グリフィンの上官である砲兵隊指揮官ウィリアム・バーリー少佐は味方だと勘違いし、グリフィンに撃つなと命じた。砲兵隊を守っていた第11ニューヨーク志願歩兵連隊(エルスワースのズアーブ兵)の側面に至近距離から第33バージニア連隊とステュアートの騎兵隊からの一斉射撃が炸裂し、砲手の多くを殺し、歩兵を逃げ散らせた。この勝機に付け込んだジャクソンは2個連隊にリケッツの砲兵中隊への攻撃を命じ、首尾良く捕獲できた。そこに北軍の歩兵隊も押し寄せ、大砲の所有権が行ったり来たりした[24]

北軍の大砲を奪ったことで戦闘の流れが変わった。マクドウェルはこの丘での戦いに15個連隊を注ぎ込み、数の上では2対1で勝っていたが、2倍以上の兵力を同時に投入することはできなかった。ジャクソンはその攻撃の手を緩めず、第4バージニア歩兵連隊の兵士に向かって、「敵が50ヤード (45 m)の距離に近づくまで発砲せずに溜めろ。それから発砲して銃剣攻撃だ。突撃する時は怒ったように叫び声を上げろ。」と告げていた。北軍は初めて反乱軍の雄叫びを聞いた。午後4時頃、フィリップ・コック大佐の旅団の2個連隊による攻撃で、最後の北軍部隊がヘンリーハウスヒルから押し返された[25]

北軍の潰走

午後4時以降、北軍の撤退

この戦場の西方では、北軍ハインツェルマン師団のオリバー・ハワード大佐の旅団がチンリッジを占領していた。やはり午後4時頃、シェナンドー渓谷からジュバル・アーリー大佐とカービー・スミス准将の2個旅団が到着して、ハワードの旅団を打ち破った。ボーリガードは全軍に前進を命じた。マクドウェル軍は崩壊して撤退を始めた[26]

この撤退はブルラン・クリークを渡るまでは比較的秩序だって行われたが、北軍の士官はもはや指揮することが出来なくなっていた。カブラン・クリークに架かる橋の上で北軍の荷車に砲弾が当たって転覆した時、マクドウェル軍に恐怖が走った。兵士達が武器や装備もかなぐり捨ててセンタービルへ向けて這々の体で走り始めると、マクドウェルはディクソン・マイルズ大佐の師団に殿軍を務めるよう命令したが、ワシントンの手前で部隊を再招集することは不可能だった。それに続く混乱の中で数百におよぶ北軍兵士が捕虜になった。そこから至近距離にあるワシントンからは、政治家やその家族を含む富裕な特権階級が北軍の容易な勝利を予測してピクニックに訪れ戦闘を観戦していた。北軍の兵士が無秩序に走って逃げてきたとき、ワシントンへ向かう道は恐怖に捕らわれて馬車で逃げようとする市民達で塞がれてしまった[27]

ボーリガードとジョンストンはこの勝機を徹底的に押し通すまではやらなかった。アメリカ連合国大統領のジェファーソン・デイヴィスが北軍兵士が逃げる様を見るために戦場に到着し、追撃を奨励したものの、両将軍の軍隊も北軍と同じくらいに乱れきったままであった。ジョンストンがミレッジ・ボーナム准将とジェイムズ・ロングストリート准将の旅団を使って北軍の右側面から割り込ませようとしたが、失敗に終わった。2人の指揮官は互いに罵り合ったが、ボーナムの兵士が北軍殿軍の砲火を浴び、リチャードソンの旅団がセンタービルに向かう道路を塞いでいるのを見て、追撃を中止した。[28]


  1. ^ a b Eicher, p. 99.
  2. ^ Davis, p. 110.
  3. ^ a b Fishel, Edwin C., The Secret War For The Union: The Untold Story of Military Intelligence in the Civil War, Boston: Houghton Mifflin, 1996, pp. 59-63
  4. ^ a b "Greenhow, Rose O'Neal", (1817-1864), The National Archives – People Description. 1817-1864, (accessed February 5, 2013)
  5. ^ "Letter Written in Cipher on Mourning Paper by Rose Greenhow", National Archives and Records Administration, World Digital Library
  6. ^ Eicher, p. 87; Livermore, p. 77.
  7. ^ Davis, pp. 110-11.
  8. ^ Livermore, p.77.
  9. ^ Eicher, pp. 91-100.
  10. ^ Eicher, p. 92.
  11. ^ Beatie, pp. 285-88; Esposito, text for Map 21; Rafuse, p. 312.
  12. ^ Eicher, p. 94; Esposito, Map 22.
  13. ^ a b Rafuse, p. 312.
  14. ^ Brown, pp. 43-45; Alexander, pp. 50-51. アレクサンダーが思い出すところでは、「側面に回られている」という信号だった。
  15. ^ Rafuse, pp. 312-13; Esposito, Map 22; Eicher, pp. 94-95.
  16. ^ Eicher, p. 95.
  17. ^ Rafuse, p. 313; Eicher, p. 96.
  18. ^ Salmon, p. 19.
  19. ^ Rafuse, p. 314.
  20. ^ Davis, pp. 142-43.
  21. ^ Robertson, p. 264.
  22. ^ Freeman, vol. 1, p. 82; Robertson, p. 264. McPherson, p. 342, reports the quotation after "stone wall" as being "Rally around the Virginians!"
  23. ^ See, for instance, McPherson, p. 342. There are additional controversies about what Bee said and whether he said anything at all. See Freeman, vol. 1, pp. 733-34.
  24. ^ Eicher, pp. 96-98; Esposito, Map 23; Rafuse, pp. 314-15; McPherson, pp. 342-44.
  25. ^ Rafuse, p. 315; Eicher, p. 98.
  26. ^ Rafuse, pp. 315-16.
  27. ^ McPherson, p. 344; Eicher, p. 98; Esposito, Map 24.
  28. ^ Freeman, vol. 1, p. 76; Esposito, Map 24; Davis, p. 149.
  29. ^ Eicher, p. 100.
  30. ^ Eicher, p. 99.
  31. ^ Freeman, vol. 1, p. 79.
  32. ^ McPherson, p. 342.


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