松本整
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 05:52 UTC 版)
書籍
- 『勝負に強い人がやっていること』〜ここぞという時に結果を出す考え方・行動の仕方〜(2007年、Nanaブックス) ISBN 978-4-901491686
- 『自転車でやせるワケ』〜身体にやさしく、効率的に脂肪燃焼できる理由とは!?〜(2008年、ソフトバンククリエイティブ) ISBN 978-4-7973-4195-9
主な獲得タイトルと記録
- 1992年 - オールスター競輪(名古屋競輪場)
- 2002年 - 寬仁親王牌(前橋競輪場)、オールスター競輪(熊本競輪場)[10]
- 2004年 - 高松宮記念杯競輪(大津びわこ競輪場)
- ふるさとダービー出場4開催連続優勝 - 1995年富山 → 和歌山 → 1996年富山 → 和歌山
- GI最高齢優勝 - 45歳0ヶ月(2004年高松宮記念杯競輪)
競走スタイル
デビュー当時の戦法は先行・捲りであった。だが、ダッシュ力やレースセンスは非凡と周囲から評価されるものの、元々持久力がなく、先行しても持たなかったことから、若い頃から勝負圏のある位置取りに拘る競走を見せていた。この頃から、松本の競走成績には「落車」や「失格」が多く目に付いている。
20代後半から戦法は自在へと変えていき、晩年はマーク・追込の戦法を取っている。直線では抜群の切れを見せる追込選手であったが、追込選手の義務として先行選手の後位を守るマーク技術は苦手にしており、他の選手から攻め込まれた事も多く、これが引退への間接的な原因になった面もある。
それを避けるためにイン突き(ルールに則した内側追い抜き)や番手捲り(先行選手直後からの捲り)などの緊急的な戦法を取ることもしばしば見受けられた。
1990年代後半まで近畿では強力な先行選手がなかなか育たず、追込選手として同じ近畿で有力な先行選手とのラインを組めることが少なかった。このため、特に中部地区の強力先行選手(海田和裕、山田裕仁など)と組んで「中近ライン」なるものを生み出した。現在でも近畿・中部の選手が比較的連携することが多い[注 2]のは、この松本の功績によるところが非常に大きい。ただ、前述通り近畿でまともなラインが組めなかった時期には、止むを得ずイン突きなど「ラフプレー」に当たる行為を連発したこともあり、このためせっかく上位入線しても事故点で競走得点を減点されることが多く、何回か斡旋停止などの制裁を受けている。
脚注
注釈
- ^ 【バンクのつぶやき】40年前の45期・松本整を軸に 月刊競輪WEB 2020年1月15日
- ^ “村上義弘、恐るべし。今だからこそ話せる02年立川GP、そして、お疲れさまでした”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2022年9月30日) 2022年9月30日閲覧。
- ^ 二宮清純責任編集『スポーツコミュニケーションズ』第22回。また作家の伊集院静も自著『どうにかなるか』で意見を述べている。
- ^ ロンドン五輪へ自転車代表監督に就任 長岡京の松本さん - 京都新聞2011年9月9日付
- ^ sanspo.com. “自転車競技連盟が松本総監督を解任 本人側反発、混乱に発展も”. 2014年6月12日閲覧。
- ^ 朝日新聞 2014年6月12日朝刊14版 24面
- ^ 自転車「日本代表チーム」総監督を解任された松本整さん、自転車競技連盟と「和解」 - 弁護士ドットコム・2015年3月27日
- ^ “村上義弘引退「よく頑張り切った」「競輪界に大きな穴が」心の師匠・松本整ら惜別コメントも”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2022年9月29日) 2022年9月29日閲覧。
- ^ “村上義弘氏が地元・向日町競輪場で引退報告会「ファンから声をかけられると寂しさを感じます」”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2022年10月22日) 2022年10月22日閲覧。
- ^ レース展望 第56回オールスター競輪(GI) オールスター競輪の思い出 第45回大会(熊本)2002年9月23日決勝 優勝:松本整 KEIRIN.JP 月刊競輪WEB 2013年8月19日
- 松本整のページへのリンク