本願寺日高別院 本願寺日高別院の概要

本願寺日高別院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/21 07:21 UTC 版)

本願寺日高別院

山門と大銀杏、本堂(左奥)
所在地 和歌山県御坊市御坊100
位置 北緯33度53分17.2秒 東経135度9分28.2秒 / 北緯33.888111度 東経135.157833度 / 33.888111; 135.157833
宗旨 浄土真宗
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 寺伝では天文9年(1540年[1][注釈 1]
開基 湯川直光
別称 日高御坊
文化財 イチョウ(県天然)
戯瓢踊(県無民)
法人番号 2170005004382
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正門
本堂
御坊幼稚園

歴史

「湯川文書」などによると、天文年間、三好家との戦い(『紀伊続風土記』によると江口の戦い)に敗れた湯川直光は、本願寺法主証如の助力により亀山城への帰還を果たした[4]。直光はそれを謝して吉原浦(美浜町吉原)に一堂を建立し、次男・信春を出家させその住職にしたという[5]

唯可と名乗った信春は、その後石山本願寺で証如に拝謁し、祐存という法名と証如の御影を賜った[6]。また、一私坊だった吉原道場は坊舎の号を許可され、吉原坊舎と称することとなった[6]

天正13年(1585年)、豊臣秀吉による紀州攻めで、吉原坊舎と湯川氏の居城・亀山城 は焼失した[7]。翌天正14年(1586年)、祐存は日高郡中の僧俗と力を合わせて薗浦の椿原に仮堂を建て、この仮堂は薗坊舎と呼ばれた[8]文禄4年(1595年)、鷺森御坊の有力門徒である佐竹伊賀守[注釈 2]の尽力により、薗坊舎が薗浦・島村の地に移されて日高坊舎となる[9]文政8年(1825年)、現存する本堂が再建され、1877年明治10年)に本願寺日高別院の称を得た[10][11]

御坊舎に因んで地名も御坊と呼ばれるようになり、御坊町(現在の御坊市)の起源となった[12]。以降、門徒を中心に人々が周辺に往来し町場が形成され、日高地方の商業の中心になった。町は日高別院を中心に西町中町東町に分かれているが、特に東町には現在でも土蔵屋敷が多く残り、近世の町並みを顕著に残している。

文化財

  • 日高別院(本堂・表門・裏門・鼓樓・鐘樓) - 市指定有形文化財(建造物)、平成10年1月21日指定[13]
  • 日高別院の公孫樹 - 県指定天然記念物、1958年(昭和33年)4月1日指定。文禄年間に坊舎移転の折に植えられたものと伝えられ、推定樹齢400年[14]

注釈

  1. ^ 『紀伊続風土記』には天文元年(1532年)とある[2][3]
  2. ^ 『紀伊続風土記』によると伊賀守[3]

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