月亭方正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 09:35 UTC 版)
人物
趣味はパソコン、ピアノ、英会話、卓球等[1]。宝塚歌劇団のファン。
芸風について「自分では笑いを作れない[6]」などとイジられがちだが、これについて松本は著書で「本人は面白いと言っているが面白くない、そこが面白い」「山崎を面白いと言ってしまうと営業妨害になる」と評している[7]。
月亭方正として
芸能生活は順調だったが、ブラックマヨネーズやチュートリアルと共に営業へ行った際にピンとして舞台でウケを取れるネタを身につけていなかったことに気付き、40歳を目前にして今後の芸能活動や路線について悩むようになった。テレビ以外にも挑戦したいという思いが強くなり、最初は吉本新喜劇の座長を目標に藤山寛美や過去の新喜劇の演目を勉強するも、テレビの仕事で多忙だったため一人では喜劇の修行ができないことにも気付き行き詰まる。
これを東野幸治に相談したところ、古典落語を勧められる。一度はそれまで全く聞いたことがなかったのを理由に「古典芸能は…」と渋ったが、実際に桂枝雀の「高津の富」を聴いてみたところ枝雀と寛美の手法が地続きだったこともあり、「これは一人で演じる新喜劇だ」と落語の面白さに目覚めた[5][8]。その後、「聞くだけでなくやってみたい」と考えるようになった方正は本格的に落語の勉強を始め、月亭一門へ入門した[8]。
月亭一門に弟子入りしたのは大阪での飲み仲間に月亭八光がいて、八光を通じてその実父の月亭八方に入門を志願したからだが、方正は八光が落語家というのも父親が月亭八方であることも知らなかった[8][9]。2008年に八方の落語会に客演として落語家デビュー、打ち上げの席で八方から正式に「月亭方正」の名を貰った[8][9]。大師匠の月亭可朝は枝雀の兄弟子であるため、芸の世界では枝雀は方正の“大叔父”にあたる。
その後も熱心に勉強会へ通って半年ほど経った頃、八方から本格的に上方落語協会への加入を勧められる。既に有名なテレビタレントだったことから、協会側はその是非でかなり揉めていたのを後に桂小文枝から聞かされていたが、八方は何も言わなかった。一方で八方が吉本所属だったため、この点での問題は生じなかった。
上方落語協会加入後は落語家としての活動が主体となり、積極的に月亭一門会や師匠・八方との親子会、「月亭方正・十番勝負」と称した勉強会、花形寄席、東西若手の会「やみ鍋の会」、八方および月亭一門の稽古場の「八聖亭」、天満天神繁昌亭の朝席・昼席・夜席などに出演。2011年1月1日は『笑点』スペシャルの東西大喜利に初出演、大師匠・可朝とも共演している。2013年1月1日よりタレント活動時も含め、芸名を「月亭方正」に一本化することになった[10]。
弟子
注釈
出典
- ^ a b 吉本興業株式会社 芸人プロフィール 月亭方正
- ^ a b 山崎邦正、落語に本腰で大阪へ引っ越し(サンケイスポーツ 2012年8月21日11:22配信 2013年1月1日閲覧)
- ^ エキサイトニュース 大学受験した芸能人の現在」 (2017.10.5)
- ^ 東奥日報・2008年12月22日朝刊、スコップ三味線"世界大会"開催(Web東奥) (2008.12.21)
- ^ a b <私の恩人>月亭方正 落語家転身は東野幸治さんの助言がきっかけ、THE PAGE、2014年1月26日
- ^ 倉科遼・ナカタニD. 「んなアホな!」第6話 『コミックヨシモト』Vol.6 ヨシモトブックス
- ^ 松本人志『プレイ坊主 : 松本人志の人生相談』集英社、2002年、111-112p頁。ISBN 4087803643。
- ^ a b c d 「月亭方正」で一本化 「山崎邦正」年内で卒業(大阪日日新聞 2012年12月29日配信 2013年1月9日閲覧)
- ^ a b 「40歳でみつけた男の夢」 - ヘタレ芸人・山崎邦正、落語家人生を語る
- ^ 山崎邦正「月亭方正」に改名、ガキ使は…(日刊スポーツ 2012年12月17日配信 2013年1月9日閲覧)
- ^ 月亭方正、ついに弟子を取る「精進してまいります」にファンは「よっ、方正師匠!」(デイリースポーツ 2021年5月17日配信 2021年6月15日閲覧)
- ^ 2020年9月16日放送の「明日をつくろう」の合唱企画に参加。
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