張倹 (遼) 張倹 (遼)の概要

張倹 (遼)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 09:00 UTC 版)

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経歴

張雍と劉氏のあいだの子として生まれた。統和14年(996年)、進士に第一位で及第すると、雲州の幕官として召された。聖宗が雲中で狩猟したとき、節度使が張倹を推挙した。張倹は30あまりの事柄を聖宗に奏上して、重用されるようになった。

開泰元年(1012年)、政事舎人に任じられた。開泰2年(1013年)、枢密直学士となった。開泰3年(1014年)、工部侍郎知制誥の位を加えられた。開泰4年(1015年)、参知政事・同知枢密院事に進んだ。開泰7年(1018年)、守司徒中書令となった。太平5年(1025年)3月、武定軍節度使・同中書門下平章事として出向した。6月、彰国軍節度使に転じた。12月、大同軍節度使に移鎮した。太平6年(1026年)3月、召還されて南院枢密使となった。参知政事の呉叔達が張倹と協調できず、聖宗の怒りを買って康州刺史に左遷された。いっぽうの張倹は左丞相・中書令となった。

景福元年(1031年)、興宗が即位すると、太傅に任じられ、同徳功臣の称号を賜った。重熙元年(1032年)、太師となった。重熙4年(1035年)、尚父の位を加えられて、秦国公に封じられ、貞亮弘靖耆徳功臣の称号を賜った。重熙5年(1036年)、張倹の発案により、興宗が礼部貢院に幸して、みずから進士を試験した。重熙6年(1037年)、韓王に封じられた。重熙11年(1042年)、陳王に徙封された。

張倹は給与を親しい人々に分け与え、みずからは粗食粗衣の生活を送っていた。興宗は張倹の清貧をあわれみ、内府の布を取らせて、衣服を仕立てさせた。興宗は張倹の弟5人に進士及第の身分を賜ろうとしたが、張倹は固辞した。あるとき役人が8人の人物を盗賊として捕らえて処刑したが、後になって真犯人が捕らえられた。8人の家人が冤罪を訴えたので、張倹は再審理を求めた。興宗は再審を渋ったが、張倹の諫めを容れて8人の名誉を回復させた。張倹は宰相の位にあること20年あまり、一線を退くと邸に隠居した。

ときに北宋の信書に無礼な言葉があり、興宗は親征しようと考え、張倹の邸に幸して意見を聴取した。張倹は「ひとりの使者を派遣して詰問させればすむことを、なぜ遠方まで車駕を労することがありましょうか」と利害を説いて諫めたので、興宗は南征を取りやめた。重熙22年(1053年)、張倹は死去した。享年は91。勅命により宛平県に葬られた。

妻子

  • 于氏(斉国夫人、武清県令于澄の長女)

  • 張禹称
  • 張嗣甫
  • 張嗣宗(衛尉少卿・軽車都尉)

  • 長女(王景運の妻)
  • 次女(鄭弘節の妻)

伝記資料

  • 遼史』巻80 列伝第10
  • 張倹墓誌銘(『全遼文』巻6所収)



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