小野淳平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 12:32 UTC 版)
広島選手時代 2015年8月29日、阪神鳴尾浜球場にて | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大分県大分市 |
生年月日 | 1987年4月5日(36歳) |
身長 体重 |
178 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2009年 ドラフト5位 |
初出場 | 2011年5月10日 |
最終出場 | 2016年7月27日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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派遣歴 | |
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この表について
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経歴
プロ入り前
大分商業高等学校時代までは無名だったが、日本文理大学では体を作り、実戦を経験する中で潜在能力が引き出され、4年の大学選手権ベスト8進出するなど[1]古川秀一と共に150km/hを記録する二本柱に成長した。
2009年度新人選手選択会議で読売ジャイアンツに5位で指名された。指名後、山下哲治スカウト部長は「直球の力は既に一軍で通用するレベル。決め球の変化球を覚えることが活躍につながる」と評価。本人も「最速155キロは超えたい。落ちる変化球を覚えて早く一軍で投げたい」と意欲を示した。
巨人時代
2010年(1年目)は故障に苦しみ一軍登板はなかった[2]。オフには豪州リーグに参加した。なお、この入団年の二軍監督は高校先輩の岡崎郁であった。
2011年から背番号が60に変更になった。同年5月10日の横浜ベイスターズ戦で一軍デビューすると、7月17日の東京ヤクルトスワローズ戦で初先発。5回2失点で初勝利を手にした[3]。シーズン終了後にはプエルトリコで行われるウィンターリーグに派遣され[4]、クライマックスシリーズのメンバーからは外れた。
2012年は背番号を43に再変更。一軍では9試合の登板で0勝に終わり、二軍でも防御率4点台後半と精彩を欠いた。
広島時代
2013年4月28日、青木高広との交換トレードが成立し、広島東洋カープへ移籍することが決まった[5]。6月6日の千葉ロッテマリーンズ戦(尾道)で先発バリントンのアクシデントにより6回から登板し、2回を無失点に抑え、移籍後初勝利を挙げた。
2014年は防御率3.86と安定感を欠いたが22試合に登板した。
2017年は一軍登板がないまま、戦力外通告を受ける[6]。12月2日、自由契約公示された[7]。
引退後
2018年より古巣である巨人の打撃投手となった[8]。2024年からは広報部所属となった。
選手としての特徴
140km/h台中盤の直球を軸にスライダーを交えた投球を見せる[9]。2010年オフにはカーブの習得を試みている。
- ^ 2010スポニチプロ野球プレイヤーズ名鑑
- ^ 「「いじられキャラ」の巨人・小野 愛車は東野からもらった」『スポーツニッポン』2011年7月18日。2024年3月29日閲覧。
- ^ 「阿部の逆転弾で巨人連勝!小野が初先発初勝利」サンケイスポーツ、2011年7月17日。2011年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月11日閲覧。
- ^ 「プエルトリコのウインターリーグに4投手を派遣」『読売ジャイアンツ(巨人軍)公式サイト』2011年10月27日。2024年3月29日閲覧。
- ^ 「巨人小野と広島青木がトレード」日刊スポーツ、2013年4月28日。2013年4月28日閲覧。
- ^ 「広島、4選手に戦力外通告 カープ一筋12年・今井「プロとしては一区切り」」スポーツニッポン、2017年10月4日。2021年4月11日閲覧。
- ^ 「自由契約選手 2017年度公示」日本野球機構、2017年12月2日。2017年12月4日閲覧。
- ^ スポーツ報知「【巨人】甲子園で藤浪と投げ合った男・元楽天の大塚尚仁氏が打撃投手で再出発」報知新聞社、2017年12月20日。2018年1月18日閲覧。
- ^ 「小野、1球に泣きプロ初黒星 巨人再び借金生活」スポーツ報知、2011年8月19日。2011年8月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月11日閲覧。
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